礼拝音声

聖書箇所:1テサロニケ 2:1-12
説教題:心を騒がせないために

導入)
  テサロニケの教会の人々には、他にも再臨に関する疑問が持ち上がっていました。偽教師などの働きによるのではないかと思われますが、再臨は既に来たという考えが、信者を不安にさせていました。そうすると、彼らが直面する迫害は、艱難時代に入ったということではないのか、自分達は、携挙されなかったのではないか、等の恐れを感じていたようです。パウロは、そのような間違った考えに揺るがされないように、彼が以前教えた幾つかのことを思い出させようとしています。

本論)
1)イエスにある希望を思い出すこと
  パウロは、何について注意するのかを簡単に述べているだけですが、イエスの再臨と聖徒の携挙を前提として話を始めます。それは、聖徒の希望です。その教えを伝えた使徒パウロ自身がまだ地上にいて、彼らを教えるために手紙を書いているのですから、既に再臨と携挙は起きてしまったと考えて恐れる必要は全くないのです。
  再臨や携挙の時には、どのようなことが起きるかは、イエスも福音書で述べています。(マルコ13章等参照)パウロも使徒として、その教えに沿って確認をしています。イエスが教えられたような印、不法の者が神殿に立つというようなことがなければ、再臨は来ないのですから、どんな手段で再臨と携挙が終わったような情報が教会に届いても、気に留める必要はなく、揺るがされてはならにのです。

2)再臨前のしるしを思い出すこと 
  先にも触れましたが、そのしるしは、不法の者(人間です)が登場すること、彼が自分を神々に勝る礼拝の対象だとすること、彼が不思議なしるし・奇跡などを行って、人々の心を惑わせることです。しかし、神の力とご計画によって、それらのことが起きていないのですから、心配する必要はないのです。しかし、テサロニケの信徒たちのように、惑わされてはいけないので、そのような知識を持っている必要が有ります。

3)破滅はキリストを受け入れなかった人々に来ることを思い出すこと
  不法の者は、人々を騙して滅びに導きます。騙すという意味の語には、不義をはびこらせるために騙すというニュアンスが有ります。10節に、どのような人々が滅びるのかが示されています。真理(である方)の愛を受け入れなかったからです。滅びに至るのは、「わたしは道であり、真理であり、命です。」と宣言されたイエス・キリストを受け入れなかった人々であるということですから、福音を信じて受け入れたテサロニケの教会の人たちは、その対象ではなく、彼らが恐れる必要は無かったのです。

まとめ)
1)イエスにある希望を思い出すこと
  再臨や携挙と聞くと、恐ろしく感じる人もいるかもしれせんが、それは、私たちにとっては恵みの時であり、希望の時です。パウロは1テサロニケ5:9で、私たちは、神の御怒りを受けるのではなく、キリストの救いを受けるのだということを既に確認しています。

2)再臨前のしるしを思い出すこと 
  再臨前のしるしについては、イエスも弟子たちに教えられました。私たちも注意していなければなりません。それは、心を騒がせないためです。
  
3)破滅はキリストを受け入れなかった人々に来ることを思い出すこと
  神の怒り、破滅は、真理の愛を受け入れなかった人々に臨みます。真理の愛、イエス・キリストの愛を受け入れた人々は、確信をもち、終末の預言などに触れても不安になたり迷ったりすることはありません。むしろ、神の恵みに感謝し、神を賛美するのです。