礼拝音声
聖書箇所:イザヤ5:1-10
説教題:わが愛する者
導入)
先ず、該当箇所の構成から確認します。1節、2節は、短い詩についてのイザヤによる導入と本文です。続いて、3節から6節までが、その詩に関係する神の言葉です。7節から10節は、イザヤによる、神の言葉についての解説です。
本論)
1節、2節 導入において、イザヤは、神のことを「わが愛する者」と表現しています。詩の内容は、後の解説にも出て来ますが、神がユダヤ人をぶどうに例えて、良いぶどう畑を用意したということです。石を取り除いたというのは、心のかたくなさや不信仰を取り除いたくれたということです。山腹という表現が有りますが、神殿が立てられたエルサレムが山の上に建っていたからだと考えられます。残念なことに、神の心遣いにもかかわらず、ぶどうのできは、大変悪いものでした。酸いぶどうと訳された語は、他に、野生のぶどう、腐ったぶどう等と理解できる言葉になっています。
3節 4節 ここからは、直接的な神の言葉として表現されています。神が心配りをして育て、最上の実を期待したのに、酸いぶどうができてしまったのですが、それは誰が悪いのか、判断せよ、と迫った内容になっています。しかし、神が心配りして育てたというならば、最善がなされたということですから、悪い結果になったとしたら、原因はユダヤ人に有るとしか言えません。言い換えれば、神は、これはお前たちユダヤ人のせいだ、と訴えていることになります。
5節、6節 ここから、神は、ユダヤ人に対してどうするか、どう罰するかを述べます。神は、ユダヤの民を守らず、整えず、成るがままに放置するというのです。また、農作物が取れないようにすると言っています。
7節 ここからは、イザヤによる解説です。神が求めた良い実というのは、ユダヤ人の行動と社会における公正と正義のことでした。代わりに彼らが結んだ、腐ったぶどうは、流血や悲鳴でした。
8節 ここでは、彼らの不正の例が示されています。貧しい者を顧みず、金の力にものを言わせて土地や田畑を買い漁る者がいたことが示されています。追い出された人たちは生活が苦しくなったことでしょう。何よりも、律法では、土地は神のもので、地境は移してはいけないことになっていましたから、彼らは、神の命令を無視していたということが問題になります。
9節、10節 神の罰についてのイザヤの説明です。人が家からいなくなるというのです。理由として考えらえるのは、疫病、戦争、捕囚です。また、農作物が育たない様が述べられています。註解書によると、ぶどうの収穫高が、普段の五百分の一程度となるということです。また、麦などは、最低でも蒔いた種の三十倍、豊作なら百倍の収穫が有るはずなのですが、10倍程度しか収穫できないというのです。
まとめ)
この後、11節からは、具体的な悪行が指摘されています。また、その罰として、国は荒れ廃れ、遠い国から強力な軍隊が攻めて来ることが預言されています。このような厳しい神の言葉を預言しなければならかったイザヤではありますが、彼自身は、神のことを「わが愛する者」と呼んでいるのです。私たちも、神を「わが愛する者」と呼ぶ者でなければなりません。本日の箇所から、私たちは、「わが愛する者」の、どのような面を見つけることができたでしょうか。
1)わが愛する者は、私たちに、深く心配りをされる
神は細心の注意を払って、イスラエルの民をエジプトから呼び出し、荒野で訓練し、乳と蜜の流れる約束の地に入れました。同様に、神は私たちの人生を導き、聖霊と神の言葉によって信仰と悔い改めに導き、聖なる民に加えてくださいました。私たちを罪から解放するために、一人子なるイエスを遣わされ、私たちの罪の代価を払ってくださいました。イエスを通して、神は私たちを最上のぶどうにしてくださったのです。
2)わが愛する者は、私たちが、神を軽視しないように警告される
朗読箇所ではありませんが、26節から30節にかけて、神はユダヤ人の5つの罪状を訴えています。神は、私たちの内側に有る曲がった道、罪の性質をご存知です。そこから離れなければ、悪い報いが待っています。そのことは、新約聖書にも警告されています。(ガラテヤ6:7参照)ユダヤ人の不誠実な歩みの要因が、24節では、神の言葉を侮ったことであるとしています。私たちは、神の言葉を豊に蓄えて、神の御心を求めて生活しなければなりません。
3)わが愛する者は、栄光を受けなければならない
先ず、神は心配りをしてユダヤ人を育て、最上の実を期待したのですから、その期待に応えることによって、神に栄光を帰し、その実を見ることによって栄光を受けなければなりません。ですから、私たちは、その自覚をもって、神を喜ばせることのできる、公正と正義をもって歩まなければなりません。
次に、16節には、「しかし、万軍の【主】はさばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、自ら聖なることを示される。」という記述が有ります。神は全知全能の神であり、最高主権者ですから、その裁き、決定を実行することによって、それが神の栄光の現れとなるのです。私たちが、神がそのような方であることを認め、告白することによって、神に栄光を帰する必要が有ります。
神の罰の記述が多く、その内容が厳しいために、恵まれないと感じられる人もいるかもしれません。しかし、この神が、私たちの味方なのです。私たちの愛する者、愛する主を認識し、愛する主と呼んで、主の恵みの内を歩みましょう。