礼拝音声

聖書箇所:マタイ20:29-34
説教題:盲人たちの視力の回復

導入)
  イエスは20章で神の国の民の生き方を弟子たちに教えてきました。今回のエピソードには、直接的言及は有りませんが、神の国の民の生き方を示していると考えることができます。この箇所から読み取れる御心を確認してみましょう。

本論)
29節 17節からもわかるように、イエスはエルサレムに向かっていました。エリコという地名が出て来ます。エルサレムに向かう幹線道路の途中に有る主要な都市で、歴史も長く、モーセの時代から有りました。
 大勢の人がイエスについて行きました。それは、過ぎ越しの祭りの時期だったからです。この祭りはエルサレムで祝わなければならないとされていました。だから、この時期には大勢の人がエルサレムに向かって移動するのでした。また、メシアは過ぎ越しの時にエルサレムで挙兵するという考えが有ったので、今年こそイエスが王になるのを間近で見ようと思った人が一緒に歩いていたかもしれません。また、ラビたちは、歩きながら弟子たちを教えることが有りました。それを、近くで聞きたいと思う人たちが寄って来るということも有ったかもしれません。

30節 二人の盲人が出て来ます。幹線道路の道端では、体に障害が有って仕事のできない人が物乞いをしていること多かったのです。過ぎ越しの時となれば、交通量が増えてもっと多くの施しを得ることが期待されました。物乞いが助け合うことが多くの施しを得ることに役立つかはわかりませんが、二人の物乞いがイエスに呼ばわる点ではうまく行ったようです。また、彼らのイエスについての理解は正しいものでした。彼らは「ダビデの子」と呼びかけています。それは、メシアの称号だったのです。

31節 大声で呼びかける二人を、周囲の人たちは叱りました。イエスが歩きながら弟子たちを教えている、もしくはこれからメシアになる大事な準備が有るという時に、邪魔が入ってはいけないと考えたのでしょう。しかし、彼らは諦めず、ますます大きい声でイエスに呼びかけました。彼らは、イエスがメシアであることを信じており、また、熱心に願って声を上げていました。

32節 彼らの声はイエスの注意を引くことになりました。また、このことは、イエスの栄光を現すことにもつながっていくのでした。セイヤーの辞典の解釈では、イエスご自身が彼らを呼び寄せたと考えられるということです。イエスご自身にご計画が有ったと思われます。イエスは彼らに「わたしに何をして欲しいのか。」と尋ねられました。これによって大事な言葉を聞くことになる質問でした。

33節 彼らの答えは彼らのイエスの理解を示すものでした。先ず、彼らはイエスを「主」と呼びました。聖書の中で、人々がイエスを主と呼ぶ時は、多くの場合は、彼らがイエスを神であり救い主であると信じ受け入れているのでした。また、彼らはイエスに「目を開けていただきたいのです。」と言いました。この告白は重要なものでした。この告白は、イザヤ35:4-5等の預言に基づいたものでした。言い換えれば、彼らは、イエスを旧約聖書に預言されているメシアだと受け入れます、と告白したことになるのです。

34節 彼らはイエスへの信仰が有っただけではなく、彼らは必死でした。彼らはそれまでに何度かイエスの奇跡の業について聞いたことが有ったかもしれませんが、直接出会えって目を癒していただけるのはこの時だけだったかもしれません。彼らの強い願いを見て、かわいそうに思いました。イエスは言葉だけで癒すことのできる方でしたが、彼らの目に手を置いて癒されました。即座に癒されたことは、イエスが旧約聖書に預言されたメシアであることを証明するものでした。
 癒された後、二人はエルサレムまで、イエスに従って行きました。そのうちの一人は、マルコが名前を記録しているバルテマイであったと思われます。おそらく、彼はエルサレムやエリコの教会で知られた人物になったのだと考えられます。


まとめ)
 このエピソードから確認することのできる霊的原則を考えてみます。

1)イエスを聖書が述べている通りに信じること
  ユダヤ人たちはメシアの預言をよく知っていました。けれでも、彼らの中にはイエスを受け入れない人が多くいました。パリサイ人やサドカイ人がその代表と言えるでしょう。彼らは、イエスの証拠としての奇跡を受け入れず、天からの印を求めることさえしました。一方、二人の盲人たちは、実際にはイエスの奇跡を目撃することはできなかったのに、イエスがメシアだと信じました。その信仰、確信が無かったなら、そんなにも必死にイエスに呼ばわることはできなかったでしょう。皆様は、イエスを知りたいと思われますか。イエスがどのような方かは、聖書を読めばわかります。イエスを、聖書に述べられている救い主として信じ、また、信頼してください。

2)イエスへの信頼を告白し続けること
  私たちがイエスを尋ね求める歩みを、私たちの周囲の人たちが妨げることが有るかもしれません。彼らの動機は、善意や常識の点から見れば、適切なものかもしれません。それでも、私たちは、粘り強くイエスへの信仰を告白していかなければなりません。また、私たちのイエスについての正しい理解と信仰に基づいて、粘り強く願いごとをささげなければなりません。
  私たちの霊的な目のことを考える時、私たちは聖霊の導きによる助を必要としています。ですから、私たちは霊的な目を開いていただけるように主に願わなければなりません。私たちの主イエスは、「わたしに何をして欲しいのか。」と聞いてくださる神です。心の目を開いていただきたいのです、と願い続けるものでありましょう。

3)イエスに従っていくこと
  二人の盲人は、目が癒された後、イエスに従ってエルサレムまでついて行きました。ある人達は、彼らが復活のイエスに出会うまでエルサレムに留まったのではないかと考えています。その内の一人は、おそらく教会を支え、建て上げる者として名前を覚えられたようです。同様に、私たちもイエス・キリストに従っていかなければなりません。その教えに従い、守るのです。私たちは神を愛し、互いに愛し合います。また、互いに祈り合っていきます。私たちは、教会での奉仕を通して、教会に、また、神に仕えるのです。