礼拝音声
聖書箇所:マタイ 20:1-16
説教題:ブドウ園の農夫の例話
導入)
マタイ19:13から、マタイは神の国についてのイエスの教えを記録しています。ペテロの、十二弟子に与えられる天国の報酬についての質問への回答に続けて、イエスはブドウ園の農夫の例話を語られています。この例話が伝えようとしていることを考えてみます。
本論)
1節‐2節)ブドウの収穫の時期には、ブドウ園の主人は普段よりも多くの働き手が必要になります。それで、働き手を見つけるために早朝に市場に行くのでした。収穫の仕事は朝6時に始まるので、5時ぐらいから市場に行って働いてくれる人を探すことになります。市場は物を売買するだけでなく、日雇いの仕事を求める人たちが集まる場所でもありました。1デナリというのは、当時の一日分の賃金でした。農夫たちはその金額に同意してブドウ園に働きに行ったのでした。
3節‐5節)ブドウは短い期間の内に収穫を終えなければならなかったそうです。ブドウ園の主人は収穫の様子を見ながら、まだあ働き手が足りないと考えてのでしょう。その後も、様子を見ながら、9時、12時、3時と繰り返し市場に出かけては、働く人を雇いました。そんな時間でも仕事を求める人が市場にいたのは、朝の早い時間は自分の仕事を片付けなければいけなくて、市場に来るのが遅くなったり、体格などの条件が合わなくて雇われなかったりした人が残っていたのかもしれません。その時の約束の言葉は、「相当のものをあげるから。」というものでした。仕事を求めていた人たちは、1デナリよりも少ないかもしれませんが、日毎の賃金で生活していましたから、それで合意して働きに行ったと思われます。
6節‐7節)収穫の仕事は午後6時まででした。残り時間が1時間しかないような時に、ブドウ園の主人が人を雇おうとするだろうかとは思うのですが、特に急いでいたのか、それとも一日仕事ができない人たちを可哀そうに思ったのか、もう一度市場に行って、働く人を雇ってきました。
8節‐9節)6時になったので、ブドウ園の主人は監督に、賃金を払うように指示しました。どうして最後に雇われた人から賃金を払うように指示したのかはわかりませんが、それがイエスの例話のプロット、筋書きなのです。雇われた時の約束は、おそらく後から雇われた他の人たちと同様に「相当のものをあげるから。」ということではなかったかと思います。ところが、一日分の労働賃金である1デナリが払われたのです。彼らは驚き、興奮したのではないかと思います。勿論他の人たちも1デナリを受け取ったと考えられます。
10節‐12節)その様子を見た、最初に雇われた人たちは、自分達はもっともらえるのではないかと期待しました。ところが、彼らが受け取ったのも同様に1デナリでした。彼らにはそれが不公平に思えました。人間的に考えれば、彼らの言い分には一理有ります。最初の人たちは12時間働き、最後の人たちは1時間しか働いていません。最初の人たちは、日中の暑い日差しの下で働きました。最後の人たちは、日が傾いた夕暮れの気温の下がった中で働きました。だから、最後の人たちよりも多くもらえると期待してもおかしくはなかったと思われます。
13節―15節)しかし、ブドウ園の主人は違った視点を持っていました。賃金は最初の契約、合意に基づいて払われるのです。ですから、不当なことはしていないと言えました。14節、15節の主人の言葉から、二つのことが判ります。第一に、ブドウ園の主人が主権を持っているということです。第二に、この主人は気前が良いということです。最初に雇われた人たちの方が、その妬ましと思う態度を諫められた形になっています。
さて、この例話の解釈はどのようなものになるでしょうか。ユダヤ教の教師たちも、同様の例話を使っていたそうです。その例話においては、最初の人たちはユダヤ人です。最後の人たちは、改宗者、異邦人ということです。そして、最後の時には、ユダヤ人の方が多くの報酬を得ることになるのだそうです。ですから、この例話が始まった時、ペテロは、聞きなれた例話のように思ったかもしれません。しかし、イエスの結論はユダヤ教の教師の教えとは違っていることが多かったので、ペテロは、どのような話になるだろうかと思い、興味を持って聞いたに違い有りません。
イエスの例話の方は、12弟子たちが持っている優越性を確認したがったペテロへの追加の回答というものでした。12使徒は、神の国の収穫の場で働く最初の人たちと言えました。パウロや、後に続く異邦人の伝道者や弟子たちは9時に雇われた人たちと言えるかもしれません。今日奉仕している牧師、伝道師、イエスの証人である皆さんは、最後の人たちになるかもしれません。今日の多くのクリスチャンは、初代のクリスチャン程には迫害を受けたり命を落としたりすることはないかもしれません。しかし、私たちは、ユダヤ教の例話とは違って、12弟子たちと同様な報酬を得ることになるのです。すなわち、皆が天の国に迎え入れられ、永遠の命をいただくのです。
まとめ)
霊感によってマタイが一番伝えようとしたことは、19:30と20:16に繰り返し述べられていることだと考えられます。後の者が先になり、先の者が後になることが有るということです。そのことを除いて、私たちが学ぶべき原則がまだ有ります。そこに目を留めてみましょう。
1)神は私たちを収穫の地に招き入れてくださった
市場は、私たちの生きる世間、生活の象徴と言えるでしょう。そこに神様は来てくださり、私たちを神の働き手となるように招いてくださったのです。神の恵みによって、私たちはキリストの体なる教会の一部となるよう招いてくださいました。より多くの人たちを天の御国に招き入れるために、教会を建て上げ、証をしていきましょう。
2)神は私たちを神の約束と契約に基づいて招いてくださった
神は私たちをキリストに従う者になるように招かれました。イエスを通して、神のわざとは、神の遣わされた方、すなわちイエスを信じることだと教えられています。(ヨハネ6:29参照)イエスを信じる者に与えらえるのは、永遠の命であることがヨハネ3:16で約束されています。これが、私たちが神に召された時に交わした契約なのです。私たちが、契約書に基づいて、契約の相手に何かを確認することが有るように、私たちは神に対して、その約束の確認をし、信仰告白をすることができます。そして、最高主権者の神の計約は必ず成るのです。
3)神は主権者であり恵みに満ちた方である
神は私たちの上に権威を持っておられます。神はご自分の意思、計画に従ってことを進めることができます。しかし、それは冷酷なやり方ではなく、恵に満ちたやり方でなされます。私たちは、この例話における最初の人たちのようになってはいけません。私たちは、物事を神に委ねて、神を信頼するのです。神の基準や計画は、私たちの基準や計画とは異なることがあります。それでも、神に信頼し、神に感謝して生きるのです。12弟子は迫害され、殉教しました。私たちはそのような艱難を経験しないかもしれません。それでも、私たちにも永遠の命と天国の報酬をくださいます。私たちにも、12弟子に与えられる恵みが与えられるのです。