礼拝音声
聖書箇所:マタイ19:13-30
説教題:唯一の良い方
導入)
18章3節‐5節で、イエスは、「悔い改めて、子どものようにならなければ神の国に入ることはできません。」と教えられました。それは、弟子の心には留まらなかったようで、今回も、子どもたちの祝福の祈りを求める人たちを弟子たちは叱っています。当時、子どもというのは、無力、無価値なことの象徴でした。神の国に入る上では、自分がそのような存在であることを認めて、神にだけより頼むことが大事なのです。
本論)
16節 純粋にイエスを求めた人たちとは対照的に、ここに登場する青年は、神の国、永遠の命ついて、間違った理解をしていました。特定の良い事をすることでそれを得ることができると考えていました。
17節 イエスは、「良い事」ではなく「唯一の良い方」が大事なのだと言われました。それは、まぎれもなくイエス・キリストのことです。良い事をすることが永遠の命につながらないことを示すために、青年の視点に立って、イエスは律法を守ることに目を向けさせます。
18節‐20節 青年は直ぐにイエスが何等かの業を示すと思ったようで、どの戒めかと尋ねます。イエスはそこで、十戒の中から、民が互いに守るべき内容の、第6戒から第9戒を示し、それに第5戒と第10戒をまとめた表現を加えます。敬虔なユダヤ人は、当然それを守るように心がけていましたから、青年は、それらは守っていると答えましたが、それで完全だという確信は無かったので、まだ何が欠けているかと尋ねます。
21節 完全になるというのは、永遠の命を得るということです。イエスは、ここでも、「良い事」と「唯一の良いお方」との関連で話しておられます。ここでの良い事は、家財を売り払って、貧しい者たちに施すことです。そして、唯一の良いお方であるイエスに従って行くことを要求されました。大事なのは、施しをせよということではありません。イエスは、青年が神のようにより頼んでいる財産は、偶像礼拝にあたるので、それを離れて、救い主であるイエスに従いなさいと言われたのです。
22節 青年は霊的な計算ができなかったようです。この世でしか通用しない財産の方を、永遠の命を与える救い主であるイエスよりも大事なものと判断して、悲しんで立ち去りました。財産を神とする態度を改めることができませんでした。
23節‐24節 イエスは、弟子に向き直り、繰り返して、富や財産が永遠の命を得る手段にはならないことを教えられました。必要なのは、救い主への信頼なのです。ラクダと針の穴の諺もしくは比喩は、解り辛いかもしれません。イエスは、「易しい」という表現をされましたが、全体的な意味合いは、「不可能だ」ということです。財産に拠り頼んで、救い主に拠り頼まない人が神の国に入ることは不可能だということなのです。
25節 弟子たちは大変驚きます。その背景には、富や財産は神の祝福であるというユダヤ人の考えが有りました。しかも、その青年は、敬虔に律法を守っていました。そういう霊的に有利な点がの有る人物が神の国に入れないならば、一体誰が神の国に入れるか、と彼らは思ったのです。
26節 イエスは、再び「良い事」と「唯一の良いお方」に目を留めた表現をしています。神の国に入ることは、人間の力ではできず、神にいれていただくしかないのだということです。そして、そのために救い主、イエス・キリストが来られたのです。
27節 ペテロが弟子の代表として、声を上げます。自分達は、何もかも捨ててイエスの従っているので、何がいただけるだろうか、ということです。21節で、イエスが、青年に「天に宝を持つことになります」と言われたことを受けて、自分達には何が与えられるのかと尋ねたのかもしれません。実際、漁業や収税事業を捨て、家族を離れて彼らはイエスに従った人たちでした。
28節 世が改まって、もしくは、新しい世界で、というのが、何時のことを指すのかは、明確ではありません。千年王国の時だと考える立場も有れば、最後の審判の時だと考える立場も有ります。しかし、その時には、12弟子たちは、イエスと共に座につくというのです。法廷や審議の時に、王の回りに補佐役が座るのは普通のことでした。この特権は、12弟子にしか与えられないのです。
29節 一方、この節で示されていることは、私たちにも当てはまります。イエスの名のために、財産や家族を捨てるということですが、「捨てる」と訳された語は、「物事を諦める、放棄する」という意味が有ります。家族から迫害されることも有るのですが、イエスの名、教えに従うことを優先するということです。百倍を受けるという表現は、神の祝福を象徴したものです。創世記26:12においては、イサクが、神の祝福を受けて、百倍の収穫が有ったという表現がされています。私たちも、信仰告白をしてイエスを救い主として従う者たちですから、そのような祝福をいただくのです。それには、山上の垂訓に示された神の守りと養いも含まれていると考えられるでしょう。
30節 イエスは、弟子たちへの教えをまとめるにあたって、警告を発しました。主との歩みは、誠実で継続的なものでなければならないことを示しておられます。彼らの歩みがそういうものでなければ、先の者が後になることも、後の者が先になることも出て来るのです。そのように感じられることが、神の摂理によって起きる場合もあるかもしれません。いずれの場合でも、神の主権を認め、謙遜に、誠実に歩み続けることが必要です。
まとめ)
1)謙遜に唯一の良いお方を求めること
子どもたちのように、自分が霊的に無力な存在であることを認めて、謙遜に救い主イエスを求めなければなりません。主に明け渡した歩みが必要です。探し求めるなら、見出すことができるのです。
2)良い事を離れ、唯一の良いお方に従うこと
青年はイエスを求めましたが、しかし、良い事、自分の行いや富を離れることができませんでした。彼は、イエスに従いませんでした。それが罪なのです。一方、弟子たちは、自分の持っている物を手放して、イエスに従いました。彼らはイエスから学び、イエスに従いました。私たちも、イエスに従う歩みに励むのです。
3)唯一の良いお方から祝福を受けること
この箇所では、子どもたちと弟子たちは神の祝福を得ています。私たちは、イエス・キリストを求める時、その血の代価によって赦しをいただきました。それによって、神との関係が修復されました。私たちは、神の恵みである「百倍」をいただいているのです。私たちは、イエス・キリストにあって、完全なのです。それは、神の国に、永遠の命に属しているということです。
「良いこと」を離れ、「唯一の良いお方」であるイエス・キリストにあって歩みましょう。