礼拝音声

聖書箇所:マタイ19:1-12
説教題:人の言葉でなく、神の言葉によって

導入)
  19章では、イエスは、神の国に入るための心構えについて語っておられます。パリサイ人とイエスの間の離婚を巡る対話を通して、どのように神の国の心構えが示されているかを確認してみましょう。

本論)
1節ー2節 イエスはガリラヤを離れ、南下してヨルダン川に近いユダヤ地方に移動しました。そこでも、神の国を求める人たちがイエスについて来ました。神の国を求める者に、神の国は与えられます。イエスの元に来た人たちは、その病が癒されました。同じように、神の国を求める者には、神の国が与えられることは、イエスが教えられている通りです。

3節 そこにパリサイ人たちがまたやって来ました。彼らはいつもイエスを失墜させるために悪意をもって訪ねてくるのでした。今回の彼らの質問は、離婚についての律法の理解を問うものでした。質問は単純なもののようですが、その背景を理解しておく必要が有ります。第一に、これは、申命記24章に出て来る離婚の規定に基づいたものであるということです。第二に、この規定については二つの理解が有って、その理解を巡って人々の間に分裂が有ったということです。シャンマイというラビの一派は、妻についての「恥ずべきこと」は不貞のことだとして、離婚の理由をそれに限定していました。ヒルレルというラビの一派は、「恥ずべきこと」はあらゆる場合に適用することができると考え、例えば、調理に失敗して不味いものを食卓に出したということも離婚の理由とできるとしていました。多くの人たちは、このいずれかの立場を支持していたということで、イエスが、片方の理解を支持するような回答をすれば、人々の半分の人気を失うことになったもしれません。それがパリサイ人たちの目論見ではなかったかと思われます。(他に、政治的な理由でイエスをバプテスマのヨハネと同じ目に遭わせようとしたという考えも有りますが、イエスがヘロデ王を直接諫めることはしませんでしたので、その可能性は大変低いと思います。)

4節 イエスは離婚については直接の回答はせず、聖書に示された結婚の原則に注意を向けさせます。創世記1:27を引用して、神は人を男と女に創造され(1対1でということです)、神の計画には離婚は含まれていないということを示しました。

5節―6節 続いて、イエスは詩編2:24 を引用されました。「結ばれ」と訳された語は、接着させられる、きっちり締め合わせられる、という意味が有り、医学用語としては、傷口を縫い合わせるような動作を表すということです。引用元のへブル語では、しっかり結び合わされる、接合されるという意味が有り、それは、皮膚や骨、筋肉などの組織が結び合わされている様子も表すものだということです。イエスは、結婚の結びつきは強いもので、分離できないものだということを確認されたのです。また、その引用は、夫婦の結び付きは、親子の結びつきよりも強いものでなければならないことを示しています。いずれにしましても、離婚は神の意思に含まれていないということです。

7節 パリサイ人たちは、離婚を前提として質問をしましたので、イエスの回答を聞いても引き下がりませんでした。そこで、問答の元になったモーセの指示について、更に質問を重ねてきました。しかし、彼らの質問は間違った部分が有りました。モーセは、離婚の正式な手続きを示したのであって、離婚することを命じたのではありませんでした。パリサイ人たちは、モーセの言葉を自分の利益のために歪曲して用いていました。

8節 イエスは荒野を彷徨ったユダヤ人とパリサイ人たちの心の在り方を、頑なだと述べました。邪悪で頑固な様子を表す語が用いられています。そんな人たちであれば、どっちみち妻を離婚して追い出すような人たちだったでしょう。離婚された女性は生活が困難でした。何の正式な手続きもなく放り出されると、身持ちの悪い女だと思われたりして、もっと立場が悪くなることが考えられましたから、きちんと離婚状は与えなさいという指示になったものと思われます。そうすれば、再婚もし易くなったことでしょう。福音書に出て来るサマリヤの女は、5人の夫が有ったということです。基本的には女性の方からは離婚の申し出はできませんでしたから、彼女は離婚されたのですが、再婚の機会も十分に有ったことが判ります。しかし、それは神が意図した結婚の在り方ではないということをイエスは付け加えています。

9節 最初の質問に戻れば、イエスの回答は、シャンマイの解釈を支持するように思えますが、創世記の記述からの結婚についての説明に異議を唱えることはできませんでした。彼らは、モーセの教えを尊ぶ立場を示していましたから、異議を唱えることができませんでした。

10節 ところが、意外の所から異議と言えそうな言葉が出て来ました。弟子たちが、夫の立場がそのようなものなら、結婚しない方がましだと言ったのです。当時の結婚は、親が決めるものでした。自分が良く知らない女性と結婚することも有りました。一緒になってみたら、金遣いが荒かったとか、暴力的であったとかいうことが有れば離婚したくなるのに、それができないと困ると思ったのかもしれません。

11節ー12節 結婚しない方がましだという言葉に応答して、イエスは、それは許されているものだけができると言いました。それはどんな人でしょうか。神の摂理によって全く結婚の願望が無い人、宦官などの立場のために去勢された人、(この理解に立てば、最初の人には、先天的に睾丸が形成されなかった男性も含まれると思われます。)そして、宣教に専念するために敢えて独身を選ぶ人が挙げられています。使徒パウロはこの三つ目のタイプの人ということになります。結婚しないことが神から許されている人は、限られていることが判ります。

まとめ)
  結婚についての記述が大半を占めている箇所ですが、そのことより、何に心を留め、何を求めることが大事かを示している箇所であると考えられます。そこで、「人の言葉でなく、神の言葉によって」という説教題としました。三つの視点をお分かちしたいと思います。

1)私たちは神の国を求めなければなりません
  人々はイエスと神の国を求めてやってきました。そういう人たちは、神の恵みを経験しました。イエスのいやしは、約束のメシアのしるしであることを、人々は理解していました。同様に、私たちがイエスを王として、神の国と神の義を求める時に、主は私たちに応えてくださり、御国の生活にいれてくださるのです。

2)私たちはみ言葉から神の御心を求めなければなりません
  パリサイ人たちは、自分達の伝統やラビの教えに基づいてイエスに質問をしました。彼らは自分達に有利になるように申命記を間違ったやり方で引用したりしました。イエスは、創世記を引用することによって、正しい考え方を示されました。私たちは、聖書に示されている神の御心を読み取ることを心掛けなければなりません。

3)私たちは聖書的な結婚官を求めなければなりません
  シャンマイ派は、申命記にだけ着目していたのかもしれません。聖書的な理解は、66巻全体から総合的に導き出されなければなりません。聖書的な結婚観について、今回確認された内容をよく覚えておいてください。世の中の結婚観とは異なっています。一方、今回の聖書箇所は、離婚の問題については語られていません。1コリント7章など、他の箇所からも総合的に理解する必要が有ります。その部分については、またの機会に確認してみましょう。