礼拝音声(聖餐式の間数分間ミュートされます)

聖書箇所:1テサロニケ4:1-12
説教題:ますます努めなさい

導入)
  パウロはこの手紙の冒頭から、テサロニケの信徒たちの信仰と愛の実践を誉めていました。先の段落では、なんとか再会して、彼らの信仰の欠けているところを補いたいという気持ちを表しています。この部分は、その欠けているところへの言及であるかもしれません。
  この箇所は、「ますます~してください」という表現で挟まれた構成になっています。(1節と10節)その基礎となるのは、神を喜ばす生き方ということです。彼は、新しい教えを伝えるのではなく、既に伝えた教えを思い起こさせて、「ますます~してください」と勧めています。どのように神を喜ばす歩みをすることを勧めているのか、確認してみましょう。

本論)
1)聖化のためにますます努める
  パウロは、この箇所に多くの言葉を割いています。聖くなること、というのは、ここにおいては、神の基準によって性的な不道徳から離れることを指しています。クリスチャンは、体を性的な不道徳のために用いてはなりません。神の御心に従った性的な関係を保つことが、聖いということであり、尊いということです。尊いと訳された語はは、価値が有るという意味もあります。聖書の規定するところの性的関係は、神の三位一体やキリストと教会の一致を示す部分が有るので、尊く価値が有るということです。
  パウロは、聖書的な基準の性的不道徳と、世間のそれとの違いを意識して、5節で、「神を知らない異邦人のように」という表現をしています。当時のギリシャ、ローマの文化では、売春婦や奴隷との性的関係は当たり前なことでした。そのため、旧約聖書の基準を守っているユダヤ人は、異邦人を性的に不道徳であると考えていました。テサロニケの信徒たちも出自としては異邦人なのですが、パウロは、このような表現をすることで、テサロニケの信徒たちは霊的には神の民となっており、異邦人ではないという意識を示したと考えられます。
  次に、パウロはそのような性的な不道徳が教会の中で実践されないようにという警告を思い起させます。踏みつけると訳された語は、つけ入る、利用するという意味が有ります。同じ信仰を持った信徒が、身分が奴隷だということで、世間の習慣に従って性的な関係を強要されるような状況が考えられます。欺くいうのも、そういう性的な関係を強いるために都合の良いことを言うことかもしれません。聖書学者の中には、この部分は、商売の時に不正なおもりや計量の道具を使うことも含まれると考える立場も有ります。
  パウロは、これらのことを「きびしく警告しておいた」と述べています。原文では、この表現は一語で、厳かに警告する、徹底的に証言をする、というような意味が有ります。すると、パウロは、この聖書的な性的関係の基準とその考え方について、詳細な説明をしたのだと考えることができます。それは、創世記1章27節、2章24節などから説き起こし、1コリント6章13節-20節のような説明であったと考えられます。
  7節では、パウロは、神の召命が聖潔を得させるためであることを思い出させ、その聖化の働きをするのが聖霊であることを示しています。

2)愛のためにますます努める
  9節におけるテサロニケの信徒たちの愛の実践についてのパウロの評価は肯定的なものです。彼らに愛を教えたのは神であるというのは、レビ19章18節等の聖書の教えであることを示していると思われます。彼らの実践のが広くマケドニヤの諸教会に知られていたのは、おそらく、それらの主要な都市が、商業都市で、テサロニケのクリスチャンの商人が行商に行って、行先の都市にある教会で良い実践を示していたということではないかと考えられます。また、他の都市のクリスチャンが、テサロニケに行商に来た時には、テサロニケの信徒のもてなしを受けたということもあったでしょう。
  パウロは、ここでも、そのような実践について、ますますそうであってくださいと勧めています。

3)証のためにますます努める
  10節のパウロが強く勧める事柄は二つ併記されていて、その二つ目が11節以降になります。落ち着いた生活をする、自分の仕事に御を入れる、自分の手で働く、という三つのことを勧めています。そうすることの目的が12節に示されています。「外の人々に対してもりっぱにふるまう」という部分が大事な部分であると考えられます。イエス・キリストという馴染の無い神を信じる者たちの振る舞いや生き様が、人に迷惑をかけてそしられるものでないように「強く勧める」ことをしているのです。