礼拝音声

聖書箇所:マタイ18:10-14
説教題:迷える羊のたとえ

導入)
  迷える羊のたとえはよく知られたものです。クリスチャンの画家やイラストレーターがよく取り上げることがあります。私たちも、この話をよく知っており、その意味も理解しているとおもっているかもしれません。しかし、私たちは自分の理解に注意しなければなりません。イエスは、同じ例話や同じ表現を、異なった場面や異なった人に対して、異なった目的で用いていることがあります。迷える羊のたとえは、ルカによる福音書にも出て来ます。その場合は、イエスはパリサイ人や律法学者に向けて話しています。本日の朗読箇所では、イエスは、弟子たちに向けて話しています。この箇所に示された、主の御心を確認してみましょう。

本論)
10節 イエスはここでも「小さい者」に言及しています。この時、小さい者といえる、子どもが一緒にいました。子どもは、1節で弟子たちがイエスにした質問への回答として、無力で身を低くする者の例として呼び寄せられたのです。その子どものように身をひくくすることが天の御国で一番偉い者となる鍵ということを弟子たちに教えようとされたのです。そして、弟子たちに、イエスを信じる小さい者たちをつまずかせないように警告されました。そのようなことをする者はわざわいであり、大きな石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれた方がましだと言われたのです。この10節では、どうして小さい者をつまずかせてはならないかの別の理由を示しています。天の御使いが天の父の顔を見ているからだというのです。聖書は、神がご自分の民を守るために天使を遣わすことが示されています。(詩編91:11、へブル1:14参照)イエスも荒野で試みを受けた時や、十字架にかかる前に、ゲッセマネの園で祈った時、天使に仕えられ、励ましを受けられました。ユダヤ人の理解によれば、天使はいつも神の支持を仰いで神の民を守っているということです。同時に、天使は自分が守っている人に何が起きているかを神に伝えているというのです。そういうことであれば、弟子たちが小さい者たちを見下げていたりすると、それも天使が神に知らせるということになります。その結果、神が弟子たちを叱ったり罰したりすることも有り得るということです。6節には、小さい者は、イエスを信じる者である書かれています。すると、私たちが同信のクリスチャンをつまずかせる、最悪の場合、信仰を捨てさせてしまうことが有れば、神に厳しく取り扱われることになるでしょう。

11節 この節は、信頼されている多くの写本には含まれていないということです。しかし、この節は、先の節の理由付けになるものです。イエスは失われた者を救うために来られ、ご自身の血で信じる者を買い取ってくださったのですから、イエスを信じる者をつまずかせるようなことが有ってはいけないということです。

12節 イエスに従う者がどれだけ神にとって大事であるかを示すために、ここからイエスは迷える羊のたとえを話します。羊飼いはユダヤ人にとって馴染の有るものでした。百匹の羊は、平均的な群れの数でした。羊のたとえは、弟子たちには、詩編23編やエゼキエル34章を思い起こさせるものでもあったと考えられます。このたとえは、イエスに従う者に焦点が有ります。たとえに出て来る人物は、羊たちの所有者です。一匹の迷った羊を捜しに行く時は、残りの九十九匹は、自分のしもべたちに託して行きます。

13節 迷った羊を捜しにでかけた時、所有者は、羊を見つけることができるだろうかとか、既に崖から落ちたり獣に食べられてして死んでいないだろうか、などど心配したことでしょう。ですから、迷った一匹の羊を見つけたならば、安全な場所にいる九十九匹の羊以上にその一匹のことを喜ぶことになるのです。

14節 羊の所有者にとっては、一匹の羊が失われることも大問題です。購入するとそれなりに大金が必要になる貴重な財産だからです。言うまでもなく、イエスの犠牲の血で贖い、救った人々が失われることは神の御心ではありません。

まとめ)
  ルカによる福音書においては、迷える羊のたとえは、取税人を見下しているパリサイ人たちに向けて語られました。その目的は、パリサイ人たちに、取税人もユダヤ人として同じ群れに属しており、同等に神の目には大事であることを伝えることにありました。本日の聖書箇所であるマタイによる福音書では、弟子たちに対して語られ、その目的は、イエスに従って身を低くする小さな者たちを、彼らが見下したりつまずかせたりしないように教えることでした。これまでの流れを踏まえて、次のような三つのポイントを提示しておきます。

1)クリスチャンが見下される時、神はご存知である
  イエスがそのように話されたのですから、天使はクリスチャンの状況を神に報告しているのでしょう。そうでなくても、神は全地全能です。イエスが弟子たちに与えた警告は、イエスに従う小さい者たちを見下さないようにということでした。その理由は、神はそういう行いをご存知だからだということです。それは当然神から叱責されるような結果になるということです。

2)クリスチャンはイエスの血で贖われた神にとって大事な存在である
  羊飼いはイエスを象徴しています。(ヨハネ10:11、ルカ19:10参照)イエスが命を捨てて救いに入れたクリスチャンですから、神の目には重要で貴重な存在となるのです。
  
3)クリスチャンをつまずかせる者を、神は罰せられる
  本日の聖書箇所は、その前に有る6節の補足という部分が有ります。クリスチャンは、同信のクリスチャンをつまずかせることが有ってはなりません。つまずかせるというのは、信仰を失わせることを含んだ表現です。イエスの血で買い取られた者を滅びに導くようなことが決して有ってはいけません。ですから、8節、9節で示された真剣さをもって、私たちは同信のクリスチャンをつまずかせることがないように努力することが必要です。