礼拝音声

聖書箇所:マタイ18:1-9
説教題:自分を低くする

導入)
  この時点で、イエスの受難、死、よみがえりは弟子たちに予告されていました。しかし、それが現実になる前に、神の国の福音を宣教することになる弟子たちが理解しておくべきことを教えておく必要がありました。弟子たちは、まだ神の国の在り方を理解していませんでした。そのことは、1節の弟子たちの質問からもうかがい知ることができます。

本論)
1節 天の御国で一番偉いのは神様に決まっていますから、この質問は、弟子たちの中で一番偉いのは誰かということになります。彼らは、度々そのようなことを議論していた様子で、同様な質問はルカ9:46にも出て来ます。彼らにとっては、イエスの弟子であるということは、イエスの内閣の閣僚になるようなものだったのかもしれません。

2節 神の御国は、能力に基づいた階級や序列とは関係無いのです。その事実を示すために、イエスは小さい子どもを呼び寄せて、弟子たちの間に立たせました。小さい子どもと訳された語は、幼児、訓練を受けている子供、という意味合いが有り、具体的には7歳かそれよりも若いというイメージになるようです。

3節 イエスが弟子たちに「真にあなたがたに告げます。」と言う時は、大事な原則を教える時です。ここで、イエスは、人が天の御国に入るための原則的な資格を教えたと言えるでしょう。その資格とは、先ず、悔い改めること、次に、子どものようになることです。悔い改めると訳された語は、一般に罪を悔い改める時に用いられる語ではありませんが、向きを変える、心を変えるという意味が有り、悔い改めと同様の雰囲気が有ります。弟子たちは、天の御国に入るためには、心構えを変えなければならないのでした。彼らはどのように心構えを変えなければならなかったのでしょうか。その答えは、二番目の資格に関わってきます。小さい子どものようになるということですが、その子どもの意味が大事です。当時の子どものイメージは、役に立たない、価値が無いというものでした。そう思われている子どもたちですから、プライドとか野心とは縁が無いのです。

4節 イエスは更に小さな子どものようになるということを違った角度から説明します。子どものようになるというのは、自分を低くするということです。聖書辞典には、次のような説明がされていました。「信仰者にとっては、完全に主に信頼し、自信をしりぞけ、肉的な自己中心をなくすことによって、これは得られる。」弟子たちは、野心を持ち、天の御国でより高い地位につくことを求めていました。しかし、イエスは、弟子たちに、そのような考えに背を向けるようにと言ったのです。彼らは、むしろ自分を低くし、単純に主に信頼することが求められていました。もし彼らが心構えを変えないならば、天の御国には入れないということでした。その原則は、私たちにも当てはまるものです。同時に、天の御国に入る私たちは、等しく御国で一番偉い者でもあるのです。また、心を変えて小さな子どものように自分を低くする時、私たちの天の御国の市民としての生活は、イエスへの信仰によって既に始まっているのです。

5節 イエスの焦点は、誰でもという表現によって、世の人々に移っていることがわかります。自分を低くする者を、イエスの名のゆえに受け入れるということは、二通りに理解できそうです。一つは、イエスに従う者を受け入れる人は、同時にイエスをも受け入れることになるというものです。もう一つは、子どものように自分を低くする態度を、イエスの名にゆえに受け入れて実践する者は、イエスを受け入れていることになるということです。

6節-7節 ここでは、イエスはパリサイ人や迫害する人たちを念頭にしています。そのような迫害が、人々を信仰から離れさせることが有り得ます。そのようなつまずきをもたらすぐらいであれば、大きな石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましだというのです。イエスに従う者たちは、ご自身の血で買い取った者たちとなるのでうから、イエスにとってそれだけ重要なのです。ことの重大さは、その石臼の大きさにも表されているのかもしれません。大きな石臼というのは、ロバや家畜の力で回さなければならない程の大きさです。臼で挽くための穀物を入れる穴も大きくて、人の頭がくぐれるぐらいだということです。一説によると、これはギリシャ式の死刑の方法だそうですが、ローマによっても用いられた方法だということです。ガリラヤ地方からもローマへの反乱を企てた者が出ていましたが、その主だった人物たちは、このようにしてガリラヤ湖に投げ込まれて殺されたということです。ですから、この言葉を聞いていた人たちの心に、生々しい記憶とともに届いたと思われます。人間の罪の性質の故に、つまずきが起きることは避けられません。しかし、そのようなつまずきを引き起こす人たちは本当にわざわいなのです。

8節―9節 この部分は、再び自分を低くすることに関連したものと考えられます。神の子どもたちは、誘惑やつまずきと真剣に戦わなければなりません。まるで手足を切り落とすかのような努力が必要な時が有ります。この部分は、実際に手足を切り落としたり、目をえぐりだすことではありません。


まとめ)
  自分を低くするとは、どういうことかを再確認してみましょう。

1)プライドと野心から離れる
  パウロは模範的なパリサイ人としてプライドのかたまりでした。イエスに出会ってから、パウロはプライドを捨てました。私たちも、弟子たちが持っていたような、この世の価値観によるプライドや野心を離れなければなりません。

2)自分が霊的に無能なことを認識すること
  最期の晩餐の時に、イエスは弟子たちに、彼らがイエスに留まっていなければ何もすることができないと言いました。小さい子どもたちが、自分では何もすることができず、親に頼るしかないように、私たちも主だけを信頼しなければなりません。
  
3)つまずきが起きないように警戒する
  つまずきを表す語は、罠をしかけるという意味が有ります。私たちは、誰に対してであろうと、罠をしかけ、不信仰や罪に導くようなことをしてはいけません。また、自分自身がつまずかないように注意しなければなりません。その実践の一部として、私たちは誘惑と真剣に戦わなければなりません。手足を切り捨てるのは比喩的表現です。これは、肉体的問題ではありません。これは、心と思いの態度の問題です。