礼拝音声
聖書箇所:2歴代誌31:2-10
説教題:祝福に至る従順
導入)
今回の内容は、ヒゼキヤ王の記録の一部です。彼はユダ王国の13代目の王でした。アッシリヤが大きな脅威となっていました。彼は統治の一年目から宗教改革を始めました。彼は神殿をきよめ、ユダ王国だけでなく、イスラエルの人たちにも種を入れないパンの祭りを祝うように呼び掛けました。多くの人たちが祭りに参加しました。祭りが終わると、人々は自分の町の偶像の祭壇や柱を破壊しました。彼らの悔い改めが純粋なものであったことがわかります。その後に起きたことが本日の朗読箇所に記されています。
本論)
2節 祭りの後、ヒゼキヤは、律法に定められている毎日の捧げものを回復するように祭司やレビ人に命じました。その捧げものの要素は、罪の赦し、神への感謝と神への賛美による和解・交わりです。出エジプト19:6や、その引用である1ペテロ2:9 が示しているように、私たちは祭司の王国と表現される存在です。ですから、私たちも悔い改め、感謝、賛美の祈りを日々捧げなければなりません。
3節 ここでは、ヒゼキヤは神の民の良き模範となっています。王でありましたが、礼拝を人任せにしたりすることはなく、自分の礼拝の分は自分で費用を負担しています。私たちが誰であろうと、神への礼拝は私たち一人一人の個人的な責任なのです。私たちは、めいめい、日々の礼拝と日曜礼拝を捧げなければなりません。
4節 祭司とレビ人を支えるのは民全体の義務でしたが、ヒゼキヤは第一段階として、神殿の有るエルサレムの住民にその務めを命じました。
5節 エルサレムの住民は直ぐに応答したばかりか、農作物の捧げものをあふれるばかりに持ってきました。5月後半から6月前半にかかる時期に捧げものは集められ始め、それは春の大麦や小麦の刈り入れの時期でしたので、初物という記述が出て来ます。
6節 間も無く、他の地域の人たちにもこのおふれは届き、家畜の捧げものを含めて、多くの捧げものが神殿に届けられました。彼らが礼拝の心をもってそうしたことがうかがえます。
7節 捧げものが集められた期間が示されています。単純に言えば、春の収穫から秋の収穫の間、ずっと農作物の捧げものが続けて捧げられたということです。
8節 捧げものをするように命じた王は、その検分にやってきました。その積み上がった農作物を見て、彼は神をほめたたえ、また、民を祝福しました。
9節 ヒゼキヤ王の質問は、なぜ捧げものがいまだに多く積み上げられているのかということです。適切に農産物が祭司やレビ人たちに配給されなかったのだろうかと思ったと考えられます。
10節 祭司のかしらであるアザルヤの回答は、配給は適切に行われたのですが、民の捧げものがとても多いので、いまだに神殿の庭に積み上がっているのだというものでした。
記者は、ここでツァドクの家に言及します。祭司長になる人は、アロンの家系に属していなければなりませんでした。アロンにはエレアザルとイタマルという二人の後継者がいました。サムエルの時代に、イタマル系のエリが大祭司でしたが、息子たちの悪い行いを適切に処することができなかったために、神の祝福を失うことになりました。ダビデ王の時代に、イタマル系の大祭司アビアタルは、神の御心を無視してソロモンより先に王になろうとしたアドニヤを支持したために、その正統性を失ってしまいました。その時、エリエゼル系のザドクは神の御心とダビデ、ソロモンに忠実でしたので、バビロン捕囚の時まで大祭司を務める家系となりました。歴代誌は、捕囚から帰還した民を力づけるために書かれたものです。ザドクの名前を出すことで、読んだ者たちが、神の御心に忠実であるように促す意味が有ったと思われます。
まとめ)
神は民の従順と認めて、祝福してくださったことが読み取れます。豊作であったことからそれが判ります。それは、申命記28章1,2、11節に示されている神の約束、契約に基づいたものであると考えられます。この箇所から読み取れる神の祝福に至る従順はどういうものでしょうか。
1)悔い改めにおける従順
種を入れないパンの例祭への参加の呼びかけから始まったヒゼキヤの宗教改革を通して、多くの民が悔い改めました。心を偶像から神に向け直しました。彼らの従順の心構えは、命じられたのでもないのに、偶像の祭壇や柱を壊したことから知ることができます。彼らの悔い改めが、神の祝福につながりました。
2)定期的な礼拝における従順
日曜礼拝だけが命じられているのではありません。私たちは毎日主を礼拝しなければなりません。神殿の礼拝の実践に倣うのです。朝夕、罪の赦しを求め、また感謝して祈ります。また、神の恵みと祝福に感謝し、神を賛美する祈りを、交わりの捧げものとして捧げるのです。詩編や聖歌の言葉を用いることもできます。
3)捧げものにおける従順
捧げものをする目的は、神殿の礼拝を維持することです。私たちの場合は、教会における礼拝を維持することになります。イスラエルの民が捧げた油が、神殿の明りに用いられたように、礼拝献金で、教会の光熱費が支払われ、礼拝堂の明りがつけられ、プロジェクターが使えるのです。礼拝献金は、牧師が教会の外で仕事をしたりしないで、聖書を教える備えに集中できるようにする牧師給のためにも用いられます。また、申命記14章には、捧げものが貧しい者たちに分配されるために集められる部分が有ることも記されています。私たちの献金が教団のプロジェクトを通して、貧しい国の援助に用いられるのはこの実践に倣ったものになります。