礼拝音声
聖書箇所:使徒行伝17:22-31
説教題:知られない神の伝え方
導入)
先週は、パウロがテサロニケやベレヤで迫害されて次々に移動しなければならなかったことをお伝えしました。今回の記事は、その次に彼が訪れたアテネでの話です。彼は、新しく訪れた都市では、ユダヤ人の会堂に行って伝道を始めるのが常でしたが、今回は、直接異邦人に伝道することが加わりました。アレオパゴスでアテネのギリシャ人に伝道しました。異邦人に伝道するので、旧約聖書の引用や人物の名前を使いませんでした。それでも、イエス・キリストとその復活を伝えようとしたことが読み取れます。パウロがどのように異邦人に語ったかを見てみましょう
本論)
22節 パウロは最初に聴衆に肯定的な評価を示します。対話のための共通の土台を整えようとしています。キリスト教も霊的、宗教的な事柄ですから、彼らを宗教心に熱いと評するのは、良い導入と言えるでしょう。
23節 ここで、パウロは「知られない神に」と刻まれた祭壇に人々の心を向けさせます。この祭壇の背景には次のような言い伝えが有ります。紀元前600年頃に、アテネで出血熱のような病気が流行ったそうです。都市の人口の三分の一が命を落としたと言われます。人々は必死に自分の信じる神々に祈りましたが、疫病は止みませんでした。そこに、エピメニデスという賢人がいました。詩人とも預言者とも考えられた人だそうです。ある晩、彼は夢を見ました。夢の中で、「羊の群れを放ち、後について行きなさい。羊たちの立ち止まった所に祭壇を築いて、生贄を捧げれば、疫病は止むでしょう。」と告げられました。そこで、翌日夢のお告げの通りにしましたところ、二日で疫病は止んだというのです。しかし、それがどの神のおかげなのかがわかりませんでした。それで、祭壇に「知られない神に」と刻んで、礼拝を捧げ続けてきたというわけです。アテネの人々は、祈りに応えて疫病を止めてくださる神の存在を信じていました。この神がどの神であったかを教えましょうというパウロの言葉は、旧約聖書に馴染のないアテネ人には適切な導入と言えるでしょう。
24節-25節 パウロは、ここから神の御性質を説明し始めます。全てを創造された唯一の神という概念は、多神教のギリシャ人には新しいものでした。全てを創造された神であるならば、この世界よりもはるかに大きな御存在です。また、神は何にも不足されない方で、人間の世話は不要です。ですから、人の作った神殿に住まわれることはないのだということを伝えました。
26節 次にパウロは神による人間の創造について語ります。アダムという名は用いませんでしたが、一人の人(男性)を創造したことから始まって、全ての国の人々を作り出し、その境界をお定めになったことを示しました。神は、そのように歴史や社会の成り立ちを背後で支配されているのです。
27節 ここでパウロが言おうとしていることは、国境を定めて人間に利益をもたらしてくださったことで、人々に神に思い至り、神を畏れ、仕え、栄光を帰するようになるはずだということです。人は堕落した性質のために霊的に盲目になっていますが、神を訪ね求めれば、見出すことができる。神は遠く離れた存在ではないのです。神を「求め」させるため、と訳された部分は、推論、思索して見つけようと探求する様子を表します。「探り求める」ならば、と訳された部分は、盲目の人が手探りで状況を把握して道を進む様子を表すものだということです。そのような姿勢が有れば、神に行き当たる、見出すとパウロは断言します。
28節 神は遠くないということを強調するために、「私たちは、神の中に生き、動き、また存在している」と言います。これは、先に出てきたエピメニデスの詩の引用です。そこに、更にアラテュスという詩人の言葉を引用します。「私たちもまた神の子孫である」という内容になっています。神に造られたのだから、神の子孫と表現できるような近さが有るというわけです。
29節 神の性質、神のされたこと、神と人の近さを語った上で、パウロは偶像礼拝の愚かしさを指摘します。神は人間がこしらえたものではなく、神が人間を造られたのです。
30節 ここで、パウロの説明は大きな転換をします。創造主である神は、彼らの偶像礼拝という愚かさをもう見過ごさず、どこでも、すべての人に悔い改めを命じておられると告げます。悔い改めと訳された語の意味は、心構えや目的を変える、その時点以降違った考え方をする、というものです。
31節 更にパウロは何故人々が悔い改めなければならないのかを示します。それは、神が世界を裁く日を定められておられるというものです。その時に裁く人も決められていて、誰がその人かがわかるというのです。神は特別なしるし、証拠を示してくださるのです。その特別な印は、その人は死からよみがえった人だというのです。パウロは、イエスの名を挙げませんでしたが、市場などでイエスと復活を語っていたことが18節に示されています。
まとめ)
人々の反応は32節に有ります。簡単に言えば、人々は福音の言葉を拒絶しました。そして、パウロはアテネを去ってしまうことが33節や18章1節に書かれています。一度福音の種がまかれたら、パウロはそれを神の御手に委ねて去ったのです。しかし、神はパウロの福音伝道に触れた人たちの心に働きかけられて、キリストへの信仰に導かれました。34節にそのことが記されています。この箇所から、知られない神を伝える方法について考えてみます。
1)唯一の創造主なる神を伝える
神の概念は人種や文化によって異なります。ですから、最初に共通理解のある部分から話始めるのは有効です。そのために、パウロは「知られない神に」と刻まれた祭壇に注目させました。そこから唯一の創造主なる神に話を持って行きました。とにかく、私たちの信じている神は、唯一の創造主であることを示さなければなりません。
2)神は探し求めることができることを伝える
私たちは神に造られたのですから、真摯に探し求めるならば、私たちは神を見出すことができるのです。前の16章では、ピリピの獄吏の救いの話が記録されています。彼はどうしたら救われるかと尋ねて、神に出会いました。神と救いを求めることは、そのように単純な場合も有るのです。
3)イエス・キリストの復活と裁きを伝える
パウロの伝道説教は、キリストの復活と裁きで締めくくられました。私たちの救いは、この二つの事柄にかかっています。私たちは、死からよみがえられたイエスへの信仰によって救われたのです。その救いとは、裁きの時に罪に定められないということです。ですから、この二つを伝えなければ、福音を伝えたことになりません。
4)宣教の結果は神の御手に委ねる
パウロは人々を更に深い議論に招くようなことをせず、次の都市に移ってしまいました。イエス・キリストの福音を伝えるのはクリスチャンのすることです。そして、その後に人々を信仰に導きのは聖霊のはたらきです。キリストも、「聞く耳を持つ者は聞きなさい。」と言って、宣教の結実を当人の心と聖霊の働きに委ねておられます。