合同礼拝でした。礼拝音声は有りません。

聖書箇所:ヨハネ9:39, 12:47
説教題:さばくのか、さばかないのか

  ヨハネによる福音書9:39と12:47の表現は、互いに矛盾するように感じます。前者では、「さばきのためにこの世に来た」という内容で、後者は、「世をさばくために来たのではない」という内容になっています。こういう場合は、どのようなことを手掛かりに確認すれば良いのでしょうか。

  語彙の研究をすることで理解が深まることが有ります。
9:39 「さばき」は、原語ではクリマというような発音になり、名詞です。
12:47 「さばく」は、原語ではクリノというような発音になり、動詞です。
更に定義を見て行くと、名詞の語感が異なることが判ります。名詞で用いる場合は、効果、影響、結果というような部分に強調点を持って、決定という意味になるという説明が見出されます。著作権が切れている辞書の表現を借りますと、「さばく行為ではななく、その結果。この世での彼(キリスト)の存在そのものが、区別を生み出し、それが、彼を信じる者と拒絶する者との間に存在する原義的なさばきの概念である。」と言う感じになっています。

  すると、どちらの表現も結論的には、キリストは公生涯においてさばくことはなさらない、なさらなかったということになります。キリストの最初の来臨と公生涯の目的は、人をさばくことではなく、人を救うことだったいうことは、ヨハネ3:16 – 18に示されています。


  翻訳ソフトなどを用いながら、グーグル検索で、研究したい聖書箇所と、commentary などの語句を入れて確認すると、役に立つ説明が見つかるかもしれません。

  同時に、イエス・キリストに救いとはどういうものなのか、ご自分で説明できるように見直しをされることをお勧めいたします。