礼拝音声
聖書箇所:マタイ 17:14-23
説教題:いつまであなたがたに我慢していなければならないのか
導入)
キリストは、変貌の山からペテロ、ヤコブ、ヨハネと一緒に降りてきて、他の弟子たちと合流するところでした。
山の上では、モーセとエリヤが現れて、神の民は実際に復活することを示し、キリストの復活も確かなものだということを確認させました。今回の下山の時に起きた事柄も、その後にキリスト自身が二度目の受難、死、復活の予告をされていますので、キリストの受難、死、復活に関係の有ることとして読み取るものと考えられます。
本論)
14-16節 キリストが弟子たちの所に戻って来ますと、一人の男性がやってきます。跪いてキリストを「主」と呼びますから、最低でも尊敬の念を持っていたことがわかります。彼は助を必要としていました。息子がてんかんを持っていたのです。発作が起きますと、意識を失いますので、これまで何度も水や火の中に倒れこむことが有ったということです。それは命の危険を伴うものでした。18節は、これが悪霊の影響であったことをはっきり示しています。この場面において問題なのは、キリストの弟子たちにはこの子を癒せなかったということです。
17-18節 キリストの言葉は、弟子たちに対する不満のお気持ちを表していました。マタイはこの時そこにいて、直にその言葉を聞きましたから、その時の感覚をありありと思い出しながら書いたことでしょう。彼は、キリストの叱責の言葉としてこれを聞いたかもしれません。不信仰と訳された語は、「信仰無しに、信頼せずに」という意味が有ります。まがったと訳された語は、「歪んだ、誤った解釈をされた、間違いの多い、あるべき姿と反対の」という意味が有ります。弟子たちは、キリストが望まれるような状態にはなかったということです。子供から悪霊を追い出そうとした時に、間違った考えや態度が有ったようです。いつまで、と語り掛けたキリストの気持ちは、苛立ちというよりは、失望の感覚ではなかったかと思います。この部分において問題なのは、弟子たちは信仰に拠らないで、もしくは間違った態度で行動したということです。
私たちも、信仰理解が間違っている時が有るでしょう。また、間違った態度で信仰生活をしている時も有るかもしれません。いずれにしても、私たちが最終的にするべきことは、キリストの元に来るということです。問題は、祈りと信仰の内に、キリストのところに持っていくのです。
悪霊は現在でも働いています。霊は見えない存在ですから、視覚的にその働きを認識することはできません。しかし、悪霊の働きが疑われる場合は、ためらうことなく、イエス・キリストの御名の権威によって、悪霊の働きを退けてください。
19-20節 その時、と訳されていますが、それから、という感覚で、おそらく泊っている家に入ってからのことと思われます。弟子たちがキリストに、どうして自分たちには悪霊を追い出せなかったのかと質問しました。弟子たちがそういう質問をするのは極めて自然なことでした。10章8節で、彼らはキリストから悪霊を追い出す権威をいただいたのです。そして、伝道旅行をした時には、実際に悪霊を追い出す経験をして、喜んでキリストに報告しています。(ルカ10:17参照)それなのに、今回に限ってそれが上手く行かなかったですから、どうしてなのかと疑問に思うのは当然です。
キリストのお答えは、単純明快でした。彼らの信仰が薄いからだというのです。詳しい説明はされていませんので、ここでの信仰の薄さはどういうもののことかを、文脈から読み取らなければなりません。20節でキリストは続けてからし種と山の例示をしています。ユダヤの文学では、からし種は、針の穴と一緒に、小さいものを表現しています。山は、難しい問題の例示として用いられます。弟子たちの信仰は、からし種より小さかったということを暗に示しています。彼らに、信仰に拠らないで行動していた瞬間が有ったということでしょう。ですから、山を動かす、すなわち、てんかんを引き起こす悪霊を、子供から追い出すことができなかったのです。彼らのその時の状態は、17節の表現に戻って考えることになります。先程の、不信仰な、まがった、という表現の意味合いを思い出してください。そうすると、弟子たちは、キリストの権威に目を向けずに、悪霊を追い出そうとしたのかもしれません。神の御子としてのキリストを意識せず、まるで、パイサイ人たちが、高名なラビの名によって悪霊を追い出すのと同じような気持ちで行動したのかもしれません。場合によっては、まるで自分の信仰深さ、自分の力で悪霊を追い出せるかのような勘違いをしていたのかもしれません。
それでは、どんな問題でも解決に向かわせる信仰とはどういうものなのでしょうか。それこそ、クリスチャンがわきまえておかなければならないものではないでしょうか。キリストは、そのことを、次の機会に再度確認されたのだと思われます。
22-23節 ここでキリストは、二回目の受難、死、復活の予告をします。この三つを必ず述べるのは、それぞれが、旧約聖書の預言の成就となるため、大事な要素であるからです。私たちは、キリストが、旧約聖書に預言された救い主であるということを信じなければなりません。父なる神は、変貌の山で、「これに聞け。」と命じられたのです。もし弟子たちが完全にキリストを信じ、信頼していたならば、この二回目の予告は、期待と感嘆をもって受け止められるべきでした。しかし、弟子たちにはそこまでの信仰が無かったため、非常に悲しむことになりました。
まとめ)
先日、ルカ24:52で確認したように、復活のキリストと昇天を目撃した弟子たちは、喜びに満たされています。この喜びが、今回の箇所においても、弟子たちの内側で育ち始めていなければならなかったはずです。にも関わらず、23節では、弟子たちは非常に悲しむのです。その状態こそ、不信仰でまがった状態と言えます。「いつまであなたがたに我慢していなければならないのか。」キリストがそう言われた時、弟子たちが喜びに満たされる日が来ることを知っていました。私たちが、問題が大き過ぎると感じる時でも、キリストの復活、ひいては自分の復活を保つ必要が有るのです。キリストは、私たちの将来の完成を目指して、忍耐をもって待っていてくださるのです。
1)私たちの問題をキリストに持っていくこと
キリストは、「その子をわたしのところに連れて来なさい。」と言われました。その時の弟子たちにとっての山であった悪霊からの解放が必要であった子どもは、キリストのところに連れて行くことで解決すつことになりました。同様に、私たちは、問題をキリストのところに、信仰と祈りによって持って行き、委ねなければなりません。
2)私たちはキリストへの信頼に基づいて行動しているか吟味すること
弟子たちは、自分の中に有る不信仰でまがった部分に気付くことができませんでした。彼らは完全にキリストに信頼することができていませんでした。彼らは、キリストや自分たちの状態の間違った理解を持っていました。キリストはどなたなのか、自分はどういう存在なのかをいつも思い出すようにしましょう。
3)旧約の預言の成就であるキリストへの信仰を持つこと
キリストは、旧約聖書の預言を成就されました。キリストはいつまもご自身の受難、死、復活に言及されていました。私たちは、聖書に約束されたように、受難し、十字架で贖いの死を遂げられ、復活されたのです。その信仰が、私たちにも、大いなる喜びをもたらすものでなければなりません。