礼拝音声

聖書箇所:イザヤ 26:1 - 12
説教題:神の素晴らしい計画

導入)
  イザヤ書には、イエス・キリストに関する預言が複数記録されていることが知られています。25章の記述も、その一つと考えられる内容になっています。この章の構成は、1節が、神の素晴らしい計画の記述への導入になっています。次に、2節から5節までが、現在完了時制を中心に用いて、実行された神の計画が述べられています。続く6節から8節までは、未来時制を中心に記述されていて、神の民にされることが述べられています。最後の9節から12節までは、やはり未来時制を中心に述べられていて、神の敵についての記述になっています。復活祭の日曜日にひも解くに相応しい神の御心を、確認してみます。

本論)
1)神の敵に対する勝利と神の守り
  この箇所で述べられている出来事が、歴史的にはどの出来事を指すのかは不明です。未来の預言まで含めて考える時には、バビロンやローマの名を挙げる人たちもいます。神の完全な勝利の様子に、強力な国々も神をほめたたえることが示されています。また、神の偉大さは、神に身を避ける人々への慈悲にもあらわされています。4節であらしと訳された語は、洪水や溢れ流れる水を表すことができるものです。旧約聖書では、荒れ狂う水は、困難の象徴です。私たちの困難を神は鎮めてくださるのです。そういうことも、素晴らしい神の計画の一部と見てよいでしょう。私たちも必要な時に神に身を避け、助けをいただき、神を誉めたてることができます。

2)神の民に対する救いと祝福
  この箇所は、私たちにとって意味の有る部分です。6節、7節には、万民とか万国という言葉が用いられています。天国の宴会の様子が述べられていると考えられます。元来それはユダヤ人のためのものと思われましたが、ここでは、異邦人もその宴会に招かれることがわかる記述になっているのです。私たちは、異邦人です。神の恵みが私たちにまで拡大されたことを、私たちは喜ぶことができます。今日でも、私たちは、イエス・キリストの体なる教会の中で、神の救いと祝福を受けることができます。7節にはおおいが二回出て来ます。人々に霊的な世界を見えないようにするおおいと考えられます。それが取り除かれて、人々が神を求めることができるようになるのです。また、おおいは、葬儀の時の悲しみの象徴とも取れるものです。それが取り除かれるのです。その理解は、8節の記述にも合致すると考えられます。8節に、私たちはイエス・キリストの働きを見ることができます。死から復活して、永久に死を滅ばされました。パウロは1コリント15章54節で、この部分を引用して、私たちクリスチャンも復活することを示しています。また、涙をぬぐい、そしりを除かれるという部分を含めて、ヨハネの黙示録21章4節の記述と合致します。そして、そのような時が来ることは、「主が語られたのだ」という表現で、神が保証してくださっています。

3)神の敵に対する罰
  モアブという国名もしくは民族名が出て来ます。それは、神の敵を代表して用いられている表現です。神様が、天国の到来の時に、新しいエルサレムを統べ治める時には、神の敵たちは罰を受けるのです。神に敵対するほどにの高慢は、城壁が打つ砕かれるように、へりくだらされるのです。神の民はその時、イエス・キリストを自分達の神と宣言するのです。この部分は、神の民を苦しめた人々に対する復讐心を満足させることに焦点が有るのではなく、救い出してくださる救い主に焦点が有ります。繰り返して用いられている「待ち望んだ」という語は、熱心に探す、待ち望む、という意味が有ります。ユダヤ人たちが、そのようにして待ち望んでいたものは何でしょうか。メシア、救い主にほかなりません。その方のくださる救いを、楽しみ喜ぶと9節に書かれています。それは、私たちの楽しみと喜びでもあるのです。
  ぼあ

まとめ)
  復活祭の日曜日は、イエス・キリストの復活を強調し、覚える日です。彼は死に死に追いやったのです。死は、人類の敵でしたが、イエスが復活された時に、その力は意味の無いものとなりました。このようにして、神は素晴らしい計画をされたのです。三つの素晴らしい神の計画を振り返ります。

1)神の敵に対する勝利と神の守り
  サタンと死は私たちの敵です。しかし、私たちはその力から解放されたのです。4節で、神は私たちの守護者であることを確認しました。

2)神の民に対する救いと祝福
  神はその救いと祝福を私たち異邦人にも拡大してくださいました。私たちは、神の祝福を、この地上と天国の両方で受け取るのです。私たちの悲しみとそしりは、完全に拭い去られます。この救いと祝福は、イエスの復活を通して私たちに届けられたのです。

3)神の敵に対する罰
  神は義なる神です。神に逆らい、神の民を虐げた神の敵は、裁かれ、罰を受けます。私たちは、裁き主であるイエス・キリストの義を求めます。そして、イエスの救いと祝福を喜び楽しむのです。イエスこそが、人類が熱心に待ち望んだ救い主です。