礼拝音声
聖書箇所:へブル 3章
説教題:最初の確信をしっかり保つ
導入)
へブル人への手紙は、その内容から、ユダヤ人クリスチャンに向けて書かれたものと理解できます。ユダヤ人クリスチャンは、一般的な社会からも、伝統を守るユダヤ人からも迫害されていて、信仰を捨てようかという誘惑が有りました。筆者は、イエス・キリストによる新しい契約が正統なものであることを示そうとしています。該当箇所では、迷いそうになっているユダヤ人クリスチャンをエジプトを脱出した後に40年間荒野を彷徨った先祖と比べることで諭そうとしています。彼らが最初の確信に留まるためにしなければならないのはどういうことだったのでしょうか。
本論)
1)イエス・キリストの至高性・絶対性に心を留めること
先ず、筆者はユダヤ人クリスチャンに、イエスがどういう方であるかを思い起させようとしています。一つは、人間として世に来られたイエスは、彼らの弱さや誘惑を理解し、助けることのできる方だということです。(2:17 – 18)
そして、3章では、イエスはモーセより偉大な方だということを示しています。ユダヤ人にとっては、モーセ程偉大な預言者はいないのですが、クリスチャンは注意深くイエスのことを思い続ける態度が必要です。1節の「イエスのことを考えなさい」という表現にはそういう意味が含まれています。モーセは神に仕え、神の民を形成するために仕える者でしたが、イエスは、神の民を支配している方です。このことを示して、筆者は、ユダヤ人クリスチャンに、より下位のものを通して与えられたものに戻ろうとするのか、と問い質していることになります。
2)不信仰な心は神の怒りを引き起こすこと
続いて筆者は、荒野で滅びた先祖たちのことに目を留めさせます。ユダヤ人にとってはとても馴染みの有る話であり、そのような姿勢に倣ってはいけないということを強く印象付けられているものでした。ですから、自分たちがそういう先祖と比べられてしまうということに、手紙を読んだユダヤ人クリスチャンたちは衝撃を受けたことでしょう。両者に共通していることは、不信仰で迷う心でした。
詩編95編からの引用を用いて、筆者は、不信仰は神に対する反抗であるということを示しています。(15節)そのような先祖たちへの神の評価は、彼らは常に心が迷っていて、神の道・教えを理解していないというものでした。(10節)その結果は、神の安息に入れないということになりました。(11節)ここでは約束の地であるカナンに入れないということですが、霊的には、神の国を相続できないことを示しています。
3)日々互いに励まし合うこと
12節から、筆者は不信仰が問題の中心であることを続けて述べています。不信仰とは、生ける神、すなわち、イエス・キリストから離れることだと言っています。神の力と恵みを疑う不信仰こそ、罪の根源です。アダムとエバが堕落したのも、この姿勢のためでした。そうならないように気をつけなさいと勧めているのですが、その方法として、筆者は、日々互いに励まし合うことを挙げています。続けて、キリストに最終的にあずかる者となる条件が示されます。最初の確信をしっかり保ち続けることです。最初の確信とは、福音のメッセージです。イエスは旧約聖書に約束されたメシアであり、信じる者の罪の代価を払うために十字架にかかって死なれ、三日目に死からよみがえったということ、また、信じる者に永遠の命を与えて、神の国にいれてくださるということです。
3章の締めくくりの部分で、筆者はユダヤ人クリスチャンに、あなた方は不信仰の故に滅びる者ですか、それとも信仰によって生きる者の方ですか、とせまっています。
まとめ)
3章には三つの命令文が有ります。「イエスのことを(注意深く)考えなさい。」(1節)「不信仰の心になってイエスから離れないように気を付けなさい。」(12節)「日々互いに励まし合いなさい。(原文ではここが主節です)」(13節)これらの命令は、当時のユダヤ人クリスチャンだけではなく、21世紀に生きる異邦人である私たちにも当てはまる内容です。それが、最初の確信を保つために必要なことであり、先に示した、私たちがそのためにしなければならないことにつながっているのです。
1)イエス・キリストの至高性・絶対性に心を留めること
常に、イエスがどのような方であるかということを繰り返し自分自身に言い聞かせ、また告白することを心掛けましょう。
2)不信仰な心は神の怒りを引き起こすこと
私たちは、生まれながらにして、神の御怒りの対象でした。しかし、イエスの恵みによって救われて神の民となりました。それなのに、もう一度神の怒りの対象となるような生き方をしたいでしょうか。不信仰はどんなもので、どんな結果を引き起こすかを確認することも、神の恵みを確認し、信仰に留まるために有益ではないでしょうか。
3)日々互いに励まし合うこと
不信仰な心になってイエスから離れることのないように、主に在る兄弟姉妹を励ますということは、なかなか私たちの頭に思い浮かばない状況かもしれません。しかし、聖書は、日々、来る日も来る日も励まし合いなさいと語り掛けているのです。直接励ますのでなくても、執り成しの祈りの中にそういう部分を加えていくことにも意味が有るでしょう。