礼拝音声

聖書箇所:マタイ15:29 - 39
説教題:イスラエルの神をあがめた

導入)
  今回の朗読では、一つ前の章に出てきた五千人の給食のエピソードによく似たものが含まれています。しかし、今回の四千人の給食のエピソードは、それとは別のものであり、また、その意味合いも異なるのです。前回からの流れを振り返りながら確認してみましょう。


本論)
  カナンの女の娘の悪霊を追い出した後、イエスは南下して、ガリラヤ湖に戻り、更に湖に沿って進んでいきました。町には入らず、山間の地域に行ったのは、パリサイ人たちを避け、また一目を避けるためであったと考えられます。しかし、それでも人々はイエスを見つけて大勢の人が癒しを求めてやって来るのでした。それは、イザヤ35:5 – 6のメシア預言の成就と言える状況でした。その時の人々の行動の記述に注目する必要が有ります。「そして彼らはイスラエルの神をあがめた。」と書いてあります。彼らにとっては、イエスの業は、自分たちの神の業ではなく、他国の神の業だったのです。彼らが異邦人であったことは、マルコによる福音書の記述では、そこがデカポリスの地方であったことが示されています。それは、ガリラヤ湖の南東の岸に接する異邦人の地域でした。
  イエスの言葉によれば、彼らはイエスの所に三日間いたということです。山間の地域に同行しようとして出かけたのですから、食料を携行しただろうと思われますが、流石に三日も経てば全部食べ終わってしまったでしょう。そんな彼らを空腹で帰したくないとイエスは言われたのです。
  しかし、弟子たちの反応は芳しくありません。既に五千人に食事をさせる奇跡を目撃していたのに、もう一度そうしてくださいとイエスに頼む弟子はいませんでした。弟子の信仰の目がまだ開かれていいなかったからかもしれません。あるいは、モーセのような預言者であることのしるしとなる奇跡を、異邦人にも見せることに躊躇いが有ったのかもしれません。
  イエスは弟子たちの持っていた7つのパンとすこしばかりの魚を受け取り、感謝を捧げてから配ると、女子供を除いた四千人が満腹したということです。それで、残りを集めると、7つのかごに一杯になったということです。
  この福音書の記者であるマタイは、ユダヤ人に向けて福音書を書いたとされています。五千人の給食は、ユダヤ人に対する神様の祝福を示す奇跡でした。今回の四千人の給食は、ユダヤ人に与えられたの同等の祝福が異邦人たちに与えられた奇跡でした。神は、マタイに、五千人の給食の記録の後に、パリサイ人たちがイエスを拒絶し、カナン人の女やデカポリスの異邦人がイエスに頼ってきて癒されるエピソードを目撃させ、その後に四千人の給食のを見せることによって、神の恵みは信仰の有る者に与えられるものであって、そこにはユダヤ人も異邦人もないのだということを示そうとされたのだと理解することができます。

まとめ)
  私たちは異邦人です。神様の恵みは私たちにも届けられました。私たちイスラエルの神をあがめる存在です。どのように神をあがめるのでしょうか

1)神が異邦人にも恵みを広げるご計画をされたことをあがめる
  神はアブラハムに約束して、彼の子孫が国々の祝福となると言われました。(創世記12:3参照)イエスによってその約束は成就しました。い奉じにも同等の恵みを与えてくださったこの神様を私たちはあがめるのです。

2)神がイエスを救い主と受け入れた者を受け入れてくださる故にあがめる
  神は心を見られます。(1サムエル16:7)パリサイ人は、上辺は完璧であったかもしれませんが、心の内はイエスを拒絶し、悪で満ちていました。しかし、謙遜にイエスの救いと解放を求めるカナン人の女の信仰は、受け入れられ、賞賛されたのです。私たちはその恵みと憐みに感謝して神をあがめるのです。

3)神がイエスを約束の救い主として証明された故にあがめる
  盲人や聾啞者の癒しは、イザヤ35:5の預言の成就であり、イエスが約束の救い主であることの証明でした。最初のユダヤ人読者たちは、このことを否定することはできなかったでしょう。このように、信じることのできる明確な証明をしてくださった神をあがめるのです。