礼拝音声

聖書箇所:ヨハネ1:9 - 13
説教題:アドベントの姿勢

導入)
  本日は第三アドベント日曜日です。アドベントという言葉はラテン語に由来し、到来を意味します。この期間、私たちはキリストの第一回目の到来であるクリスマスを祝う備えをするだけでなく、第二回目の到来である再臨への期待も持って供えます。更に、私たちは日常生活におけるキリストの臨在という到来を期待して生きる必要が有ります。私が見たウィキペディアでは、「クリスチャンは三つのキリストの到来について語る。すなわち、人となってベツレヘムに生まれた到来、日常生活の中で心にいらっしゃるという到来、世の終わりに栄光を帯びて再臨される到来である。」という内容の説明がされていました。こうして見ると、我々のアドベントの姿勢というものは、クリスマスに限定されたものではありません。アドベントの姿勢をいつも持っていなければなりません。具体的にはどのような姿勢であるかということを、本日の聖書箇所から考えてみましょう。


本論)
1)私たちは、キリストに対する渇望を持っていなければならない
  9節の、光の到来の宣言は、イエスを受け入れたユダヤ人たちには大いに興奮を呼び起こすものであったことでしょう。彼らは、救い主の出現を千年以上も待ちわびていました。旧約聖書には、救い主の到来の預言が百以上記録されています。それは、最も偉大な神の約束でした。それは、人類に対する神の愛の頂点です。
  キリストに従うものである私たちも、日常生活において同様の渇望を持ち続けることが必要です。その姿勢は、イエスの臨在を求め歓迎する気持ちを表明すること、イエスが私たちの主であることを告白すること、神の言葉に従う力を祈り求めることなどで表すことができます。主の祈りを頻繁に祈ることもその実践と考えられるでしょう。

2)私たちは、キリストを受け入れ、従順する備えがなければならない
  10節、11節を読むと、世の人々がキリストを受け入れなかったことが示されています。彼らは救い主を待ち望んでいたのにも関わらず、実際にキリストを受け入れた者は少数でした。バプテスマのヨハネを見て、この人がキリストではないかと噂をする様子を見れば、彼らがどれだけキリストの出現を渇望していたかがうかがえます。(ルカ3:15参照)にも関わらず、バプテスマのヨハネがイエスを指示した時、皆がイエスに従って行こうとしたのではありませんでした。彼らには、神に与えられた恵みと祝福がわからなかったのです。
  キリストに従う者である私たちは、キリストを受け入れ、従順する備えができていなければなりません。多くのユダヤ人たちは、イエスが、自分たちの考える救い主の概念と合わなかったために、イエスを受け入れることができませんでした。しかし、私たちはキリストを私たちの小さな考えに押し込めて限定してはいけないのです。そのような態度が私たちの中に有れば、私たちは日々の歩みの中で神の恵みを十分に体験することはできません。イエスがどのような方であるかを、聖書を通してよく理解することに努め、その教えに従って行くのです。

3)私たちは、積極的にキリストの恵みを探し求め、体験しなければならない
  先に、世はキリストを知らなかったとヨハネは述べましたが、ある人達はキリストを探し求めて受け入れ、その名を信じた、すなわち、キリストであると信じました。その信仰が、恵みと永遠の命への扉を開いたのです。その信仰を通して、キリストは私たちに神の子となる特権を与えてくださったのです。特権と訳された語は、他に、権限を与えること、力という意味が含まれます。続いて13節では、この特権は、私たちの欲求、決断等によって与えられたのではなく、神によって与えられたのだということが示されています。
  そのような体験をした人物の中に、ペテロの兄弟アンデレがいました。彼は神の恵みによって導かれました。同時に、バプテスマのヨハネがキリストを指し示した時、直ぐにキリストについて行く積極的な姿勢を示しました。(ヨハネ1:35-44参照)
  私たちの場合はどのような行動になるでしょうか。信仰によって歩むこと、神の恵みを数えること、意識してキリストの教えを守ること等でしょう。私たちは、聖書を読み、祈ることによって聖霊の交わりを持たなければなりません。それは、面倒なことと思われるでしょうか。実際に行動すれば、面倒だと感じることも有るでしょう。その時は、特にアドベントのこの時には、東方の博士たちのことを考えてみましょう。彼らは赤子のイエスに会うために、遥々旅をしてエルサレムまで、そして、ベツレヘムまで来たのです。そして、イエスを彼らの王、また神として拝んだのです。その結果、彼らは喜びに満たされて帰途につきました。その一方で、ベツレヘムに住んでいた人たちは、救い主が近くにいることを知らなかったのです。私たちは、東方の博士たちのような期待と積極性をもってキリストを探し求める必要が有ります。探し求めれば、探し求める程、更に神の恵を見出すことになるでしょう。


まとめ)
1)私たちは、キリストに対する渇望を持っていなければならない
  キリストに対する渇望を持つとはどのようなことでしょう。キリストの力によって生きたい。キリストに従う者として歩みたい。神の恵みをもっと見たい。そのような思いを持ち続けることも、そういう態度の現れではないでしょうか。

2)私たちは、キリストを受け入れ、従順する備えがなければならない
  キリストはどのような方か、その教えはどのようなものかを考えると、受け入れ難いと感じる時も有るかもしれません。しかし、キリストは創造主であり、私たちは被造物です。単純に受け入れ、お従いするしかないのです。

3)私たちは、積極的にキリストの恵みを探し求め、体験しなければならない
  神の子となる特権を与えられた者として、日々の生活の中でキリストを探し求めて行きましょう。主のみ言葉を訪ね求め、祈ることを通して、神の恵みを更に体験して行きましょう。神の恵みによって、私たちの永遠の命は既に始まっているのですから。