礼拝ビデオ
聖書箇所:コロサイ3:1 - 11
説教題:地上のものではなく、キリストにあって
パウロは直前の記述では、偽教師の教えが律法主義、神秘主義、禁欲主義等の、人間的な知恵によるもので、この世と共に滅ぶだけの価値の無い教えであることを述べました。今回の聖書箇所は、そのことを受けて、だから上の物、天上のものに心を向けなければならないと諭しています。特に信仰を持っている者がそうするべき三つの理由をこの箇所から取り上げてみます。
1)私たちは既にキリストにあってよみがえらされたから(1節ー4節)
キリストにあってよみがえらされたのなら、という仮定の表現は、事実の指摘として用いられているています。天上の補足として、そこにキリストが神の右の座を占めていると述べられていますが、それは単に場所を説明したのではありません。キリストがそこに至るまでの過程をも心に留めていると考えられます。降誕、十字架、復活、昇天を通ってこそそこに至るのであり、それによってクリスチャンはよみがえらされることになったのだからです。
2節は1節の繰り返しの面が有りますが、地上のものと対比させる意図が有ります。地上のものはクリスチャンの最終的な目標にはなりえないのです。3節は更に進んで、クリスチャンがキリストにあって死んだことを、過去の事実を示す動詞の時制で表現しています。そして、いのちはキリストの内に隠されていると述べます。隠されているという語は、鍵をかけるという意味が有ります。まるで、キリストという世界一安全な金庫にしまい込まれ、保管されているようなイメージになっています。そればかりか、キリストの再臨と天国の生活において、私たちもキリストの栄光の内に現れることになるというのです。そのような特権を持っているクリスチャンですから、地上のものに引き込まれてはいけないのです。
2)地上のものは神の怒りの対象であるから(5節ー7節)
5節にこの世に属する性質が列挙されていますが、それらはまとめて偶像礼拝だと指摘されています。それらは神を信じない、神に信頼しない態度を反映しています。このようなことのために神の怒りが下るのです。この6節には脚注がついていまして、古い写本の中には、不従順の子らの上に、という語が添えられているものが有るということです。私たちは神を信頼して従順するように創造されたのです。しかし、偶像礼拝をしている時は、不従順な状態なのです。キリスとの恵によって共に、死に、よみがえらされ、キリストの内に鍵をかけて保管されるように隠され、キリストの現れの時に、その栄光のうちに現わされるクリスチャンが、どうして継続的に偶像礼拝、不従順のうちに留まっていることができるでしょうか。7節の表現は、そのような事柄は、もうすでに過去となったのだということを強調しています。
3)私たちは新しくされたのだから(8節ー11節)
8節と9節の命令は、連動しているように見えます。古い自分を取り除きなさいということに主眼が有ります。8節に列挙されていることは、全て口からでる言葉で言い表すことができます。そして、9節ではそのまとめのように、偽りを言ってはいけませんと命じています。偽りは愛の律法に反し、教会に信仰の破壊や愛の破壊をもたらします。偽りはサタンの性質です。偽りを言ってはならない理由は、既にクリスチャンは古い人を脱ぎ捨てたからです。捨てたものをいちいち拾い上げて用いる必要は無いのです。
偽りを言ってはならないもう一つの理由が、10節に示されている、新しい人を着たという事実です。その新し人は、救い主であるイエス・キリストについての真の知識によって着せられたのであり、その新しい人をクリスチャンに造り出してくださったキリストの似姿に成長していくことを含んでいます。