本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:マタイ13:47 - 52
説教題:地引網のたとえ

    13章に出てくる最後のたとえです。悪いものが良いものから取り分けられる点が、少し前の毒麦のたとえと共通しています。この二つのたとえの間には、隠された宝と高価な真珠のたとえが挟まっています。神の国を大切に考えて探し求めない者は、神の目には悪い者であるということを伝えようとした配置なのかもしれません。

1)私たちは世から取り分けられ、キリストへの信仰によって神に受け入れられた
    48節と49節に、それぞれ「良いもの」「悪いもの」、「正しい者」「悪い者」という対比が出できます。良いものは、「受け入れられる性質を持っている、健全である、心地よい、美しい」という意味が有ります。悪いものは、「価値がない、滅びる」という意味が有ります。また、正しい者は、神の要求に従っているという意味が有り、悪い者は、元来の徳、価値から脱落している、病んでいるという意味が有ります。
    人類は、アダムのうちに罪を犯し、創造された時の元来の徳、価値から脱落し、最初の価値を失って滅びるべき存在となりました。しかし、イエス・キリストの救いの業を信じ、救い主として受け入れることによって、神の要求に従い、神に受け入れられる者となりました。

2)私たちは心と思いを神の言葉で満たさなければならない
    イエスの弟子たちはイエスの言葉を理解しようとする気持ちが有りました。良い地に蒔かれた種のたとえや毒麦のたとえの時にはイエスに質問をしています。彼らには、神の国を探し求める姿勢が有りました。
    イエスが、これまでに述べられたたとえを理解したかと尋ねると、かれらは「はい」と答えました。その理解は浅かったかもしれません。まだイエスのことを誤解していたかもしれません。それでも、イエスは弟子たちのことを「天の御国の弟子となった学者」と表現しています。
    学者と訳された語は、律法学者に用いられる語と同じものです。聖書の知識は宝にたとえられました。古い宝は天の御国に関する旧約聖書の教え、新しい宝は天の御国に関するイエスの教えと考えられます。その宝を取り出すためには、先ず、倉である私たちの心と思いが神の言葉で満たされていなければなりません。