第一話に出てくる表現です。

  マシューが駅に養子になる子供を迎えに行ったことをマリラがリンド夫人に告げると、大変驚いて、そんなことは軽率にするべきではなかったというような態度で話し始めるのです。そして、ある夫婦が孤児院から男の子を迎えたら、その子が故意に家に火をつけて、夫婦は危うく命を落とすところだったとか、別の子は、しょっちゅう生卵を殻から吸い出して食べてしまう子で、その癖が止められないのというような話をするのでした。一言相談してくれれば止めたのに、と言うのです。
  このヨブという人物は、旧約聖書に出て来ます。神が悪魔に向かって、ヨブ程敬虔で神を敬う人物はいないと言うと、悪魔は、そんなことはないという反論をします。困難なことが起きれば、化けの皮が剝がれて、そんなものは消え失せてしまうだろうというのです。神は、ヨブの正しさを証明できることがわかっていたので、それでは試してみよと悪魔に言います。それで、悪魔は大変な困難を彼に与えました。しかし、ヨブは、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。(2章10節)」と言って、神を呪うようなことは言わなかったのです。

  さて、ヨブが困難に直面していることを伝え聞いた彼の友人たちが見舞いに来ました。しかし、彼のあまりの惨状に驚いた彼らは涙を流して嘆き、一週間、ヨブに話しかけることができませんでした。ところが、その後、ヨブが、こんなに困難な目に遭って苦しい、生まれなければ良かったのだというような愚痴をこぼしますと、友人たちはその後、延々と交代でヨブに非が有り、悪いことをしたに違いないから、生き様を正せというような忠告を浴びせかけるのです。
  友人たちはヨブを慰めに来たはずですが、逆に彼を責め立てることになり、少しもヨブの気持ちを和らげることが有りませんでした。ヨブにとっては聞くだけ無駄な言葉が長々と述べられたことになります。

  モンゴメリは、リンド夫人の忠告が、孤児院から子供を迎えるマシューとマリラには、何の慰めにも参考にもならない内容だったことを、このような、ヨブにかけられた無駄で逆効果な忠告のイメージと重ね合わせて表現しているのです。しかし、ここにヨブを持ち出すことにはもう一つの効果が有ります。ヨブはその後、神にその正しいことを認められ、「主(神)はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。(42章12節)」と聖書には記録されています。それは、この物語の第一話において、マシューが迎えに行った孤児院から引き取る子供の将来も、マシューとマリラの将来も、共に明るく豊かなものになることを暗示しているのです。その様子は、アンの物語をお読みになった方はよくご存知の通りです。