本日の礼拝ビデオ 前半 後半

聖書箇所:ガラテヤ3章1節-14節
説教題:基本に返る

導入)
  この箇所は、「ああ愚かなガラテヤ人」という強い表現で始まっています。原文でも強意を表すオーという語が添えられています。なんと愚かなガラテヤ人よ!という呼び掛けになっています。それは、彼らが偽教師、律法主義者に心を奪われてしまったりしていたからです。
  しかし、突然「愚かなガラテヤ人」と呼びかけられるのは、気分が悪いことではないでしょうか。それで、パウロは最初の2章を費やして、自分が正真正銘の使徒であることを先に述べるのです。1章15節、16節には、神から直接召命を受けたことを示します。また、エルサレム教会のリーダーであるペテロ、ヨハネ、ヤコブに受け入れられたことを示します。それだけではなく、2章11節では、必要が有るならば筆頭の使徒であるペテロに対しても意見することのできる立場だということを示しました。そうやって、神に立てられた使徒の立場を確認させて、ようやくこの3章で本題に切り込むのです。
  ここで、パウロは律法主義の偽教師を間接的に論駁しながら、ガラテヤのクリスチャンたちが立ち返るべき基本を確認させています。

本論)
1)イエス・キリストの知識に返る
  1節 愚かなと訳された語は、理解が足りないという意味の語で、知性や知能が足りないという意味ではありません。彼らは、元々の理解が足りなかったり、偽教師に惑わされたりして、真理から離れてしまったのです。その様子は、迷わせたという語で表現されています。これは、幻惑される、まじないにかかる、知性によらないで導き出されるという意味を持っている語です。パウロはこのような表現をせざるを得なかったのです。なぜならば、イエス・キリストの福音ははっきりと彼らに伝えられたからです。示されたと訳された語は、看板を掲げて公に告知されたという意味が有ります。
  2節、3節 聖霊を受けたのは律法を行ったからか、それとも信仰を持って聞いたからかと、パウロは聞いています。答えは明白です。信仰によって聞いた時に聖霊が臨み、律法の行いは後から偽教師が持ち込んだのです。となれば、聖霊の働きの方が人間の行いより遥かに優れているのですから、聖霊によって完成を目指さなければなりません。
  4節 あれほどのことを経験した、というのは何のことでしょうか。これは、彼らが経験した迫害のことだという理解が有ります。パリサイ人や律法学者は、パウロの後をつけまして、更には、ユダヤ人や異邦人のクリスチャンを迫害しました。彼らが律法をないがしろにすると考えたからでした。そんな迫害を受けてまで守ろうとした信仰が、いまや律法の行いに取り込まれるとはどういうことか、と訴えているのです。それであれば、最初から迫害される必要は無かったはずではないかということです。あの苦しみは無駄ではないかと、彼らの記憶に訴えています。
  5節 そのような迫害の中でも、神は奇跡をもって彼らを励まし、守ってくださったということでしょう。その記憶を促しながら、もう一度2節でした質問をパウロは繰り返すのです。聖霊を受けたのは、福音をよく理解したうえで、信仰によったのだということを思い起こさせ、その基本に返るように勧めています。

2)信仰の父アブラハムの証に返る
  6節 ここでパウロはアブラハムの話を持ち出します。それには幾つかの理由が有りました。1つ目は、律法主義者、ユダヤ主義者は、アブラハムの子孫であることを誇りに思っていたからです。二つ目は、アブラハムが神に対する信仰の父と呼ばれる存在だからです。三つ目に、アブラハムはモーセを通して律法が与えられる前から、神の前に義とされた人物だからです。
  7節‐9節 ここでの要点は、異邦人はアブラハムの子になるのに割礼を受ける必要は無いということです。神に対する信仰によってのみアブラハムの子、アブラハムに倣う者になれるからです。そして、8節では、それが異邦人にまで及ぶことが示されています。すべての国々が祝福されるということは、異邦人もその祝福を受けることができるといことになります。そして、通り、実際に異邦人クリスチャンはアブラハムの祝福、すなわち、イエス・キリストの救いを信仰によって受けているのです。
  アブラハムは信仰の人であり、律法の人ではありませんでした。ですから、アブラハムに倣う異邦人クリスチャンが割礼を受ける必要は無いのです。この説明は、ユダヤ主義者に対する論駁の意味を持っています。ユダヤ主義者は、メソポタミア地方の出であるアブラハムを、ユダヤ教に改宗した異邦人の模範と考えていました。異教の生活から神はアブラハムを召し出しました。ですから、旧約聖書の記述に則したパウロの説明を否定することは難しかったのです。アブラハムの改宗においては、律法は介在していないのです。
  旧約聖書の解説も、使徒たちが異邦人に宣教する時になされていました。そういう基本的な理解に返って行く必要が彼らには有りました。ここでは、特に、アブラハムと彼が律法の無い時に義とされたことに。

3)救いに関する律法と預言者(旧約聖書のこと)の証に返る
  このことの重要性は、イエス・キリストご自身が律法と預言者を通して神の救いの計画を説明していることからわかります。(ルカ24章25節―27節参照)この箇所で、イエスも「ああ愚かな人たち」(理解の欠如している人たち)という表現を用いています。1節のパウロの言葉と共鳴しているかのようです。このように、旧約聖書が示す救いの計画の理解は大事なのです。
  パウロはここでも旧約聖書を持ち出すことによって、ユダヤ主義者たちに論駁していることになります。ガラテヤのクリスチャンたちに、その方法を示したのかもしれません。要点の一つ目は、律法の行いによっては良くなることはできず、むしろそれが呪いをもたらすということです。10節では申命記27章26節を引用して、律法はすべてをまもらなければ無効であり、呪いとなることを示しています。二つ目は、呪いの反対の祝福は、アブラハムの信仰に倣うことによって得られるということです。(11節、12節)パウロはここで、旧約聖書のハバクク2章4節を引用して、預言者もそう教えていることを示します。三つ目に、神の救いの方法を説明しています。(13節、14節)申命記21章23節の引用によって、イエスは私たちの身代わりに木にかけられて呪いを受けてくださったことが説明されています。木と訳された語は、人をはり付けるための木という意味ですから、私たちにとっては十字架ということになります。私たちはこの恵を信仰によって受けたのだということです。

まとめ)
  私たちの教会にはユダヤ主義者はいないでしょう。しかし、間違った教えはいつでも教会に入り込もうとしているのです。ですから、私たちも信仰を破壊しようとするするものが自分の理解や考えの中に無いかどうかに気を付けなければなりません。信仰についての不安や疑いなどもその一部かもしれません。ですから、私たちはいつも基本に返って、私たちの信仰を取り戻さなければなりません。

1)イエス・キリストの知識に返る
  イエス・キリストは神の御子であり、救い主です。私たちの罪を贖うために、身代わりとなって十字架の上で罰を受けてくださいました。信じる者には神の義を賜り、永遠の命を下さる方です。この基本に返るのです。また、最初に信仰を持つに至った時の体験や、これまでの歩みにおける神の恵みを繰り返し思い出すことも大事です。

2)信仰の父アブラハムの証に返る
  神はアブラハムに、彼を通してすべての国々に祝福が及ぶことを約束されました。彼はそのことを信じる信仰によって義とされました。100歳になるまで跡継ぎが生まれませんでしたが、紆余曲折を経ながらも、信仰を守りました。一人息子を燔祭として捧げるように告げられた時にも、それでも神は約束を守られる方だという信仰を持っていました。このような信仰に返り、信仰の姿勢に倣うのです。

3)救いに関する律法と預言者(旧約聖書のこと)の証に返る
  最初の要点と関連が有りますが、旧約聖書はイエス・キリストを証しています。また、なぜ人類が救世主を必用とするかを説明しています。イエスの最初の来臨についても預言されており、それが実現しているのです。私たちは信仰を深めるためにも、旧約聖書を含む聖書全体に慣れ親しむ必要が有ります。