本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:ヘブル13章1節-6節
説教題:私たちの愛の実践

導入)
   高校三年生の進路指導の時期のことです。キリスト教系の大学を受験する生徒の面接指導をしていた同僚が、キリスト教の精神として博愛の精神ということを挙げて回答すると良いという助言をしていました。横にいた私は、キリスト教の精神は必ずしも博愛の精神とは言い切れないのではないかと思いながら聞いていました。例えば、1テモテ2章4節などを見れば、神はすべての人が救われることを望んでおられるという記述が有ります。その面からは、博愛という印象が有るかもしれません。しかし、ヨハネ3章16節では、救いの条件は「み子を信じる者」となっていますから、その面からは博愛ということになるのかという疑問もわくところです。
   しかし、愛がキリスト教の大事な要素であることに間違いは有りません。ヨハネは、「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(1ヨハネ4章8節)と証言しています。そうであるならば、当然愛は大事な要素です。ガラテヤ5章22節から始まる御霊の実の最初に来るのも愛です。
   さて、ヘブル人への手紙は、その題が示す通り、ヘブル人、つまりユダヤ人クリスチャンへの手紙です。そして、その手紙の結論に差し掛かるこの13章の最初にも、愛への言及が有ります。聖書が私たちに伝えようとしていることを確認してみましょう。

本論)
1)愛を継続させること
   これは、1節から確認できます。兄弟愛を「いつも持っていなさい」という命令ですから、愛を継続させることになります。そして、原文の直訳も、「兄弟の愛に継続させなさい。」というものです。すると、この使役動詞は、主体である愛がそうする意思を持っていることを含意します。ここで愛を擬人化して説明してみます。愛はあなたの人生に働きかけたいと願っています。愛はあなたの人生を律したいと願っています。ですから、愛にそうさせるのです。御霊の実の一つ目は愛です。その愛に、溢れていただくのです。
   1節は、イエスが弟子たちに語った言葉を連想させます。原文で継続させるという意味の言葉には、メノーという語が使われています。これは。ヨハネ15章5節や9節で、「とどまりなさい」と訳されているものです。イエスの中にとどまる、つまり、イエスの教えを守り続けるという部分で用いられています。そして、その教えは、「互いに愛し合いなさい。」なのです。これは、イエスの基本的で中心的な教えです。私たちはそこにとどまり、その教えを守り続けなければなりません。ですから、「愛を継続させる」ということになります。

2)実践的な方法で愛を表すこと
   2節から4節には愛の実践例が示されています。
実践例1(2節) 
   旅人をもてなすというのは、クリスチャンの旅人のことです。ユダヤ人クリスチャンは同胞のユダヤ人に迫害されていました。それだけでなく、ローマ帝国内でも迫害されていました。そのせいで、住み慣れた場所を追われて、不慣れな場所に移動しなければならないことが有りました。しかし、宿屋がかえって危険な場合も有りました。ですから、兄弟愛の実践として、もてなし、家に泊めるということが求められました。続く記述は、創世記に出てくる、アブラハムが旅人をもてなした結果、神の啓示と契約の再確認をいただいたという記事に基づいています。

実践例2(3節)
   牢にとらわれている人を訪ねるということは、マタイ25章35節-36節のイエスの教えにも出てきます。連帯、同情ということが大事なことが示されています。イエスが肉体をもって私たちの苦しみを理解してくださっているのと同様に、私たちも同じ人間として兄弟姉妹の苦しみを理解できるのですから、祈り、時には訪問して愛を実践するのです。(ヘブル4章15節、2テモテ1章16節‐17節参照)

実践例3(4節)
   結婚を尊ばれるもの、聖なるものとすることも愛の実践です。尊ばれると訳された語は、莫大な価値の有る、貴重なという意味が有ります。創世記1章には、人が神の似姿に想像されていることが述べられており、結婚が三位一体の神の奥義を表すものでもあることがわかります。また、新約では結婚はイエス・キリストと教会の結合を象徴しています。(エペソ5章31節‐32節)教会はイエスの十字架の贖いの代価によって生まれました。そういうわけですから、クリスチャンにとっては、結婚は絶大な価値が有り、尊いものとして認識されるべきなのです。
   なお、不品行というのは、正式に結婚することなく性的な関係を持つことや、売春することを意味します。また、姦淫は、結婚している人が配偶者以外の人と性的な関係を持つことを意味します。それは、神の御心を尊ぶ行為ではなく、互いに愛し合う行為だとは言えません。

3)神の愛を自分の人格品性の土台とすること
   5節には、神以外のものを愛することが出てきます。金銭を愛することは、私たちの生活における偶像礼拝の一例となります。私たちは金銭ではなく、神に信頼するべきなのです。満足しなさいという命令の語は、損なわれることのない強さを表す語だそうです。金銭は損なわれることが有ります。富が一夜にして失われる話も聞きます。しかし、神とその恵は決して損なわれることがありません。神がいかに私たちを愛してくださっているかを心に留める必要があります。5節の後半には、主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」と確認させています。決してという強意の否定表現が用いられています。この表現は、可能性の否定を意味します。神が私たちを離れ、見捨てる可能性は一切ない。0%だということなのです。神があなたを離れ、見捨てることは起こり得ないというのです。なぜでしょうか。それは、イエス・キリストが十字架で流した血の代価で私たちは贖われており、そのイエスを私たちが信じ受け入れたからです。この事実が、私たちにいつも6節の告白をさせるようでなければなりません。私たちは確信と勇気と大胆さをもってこのように告白することができるのです。私たちの心はキリストにのみ合わせられていなければなりません。私たちが神の愛に基づいて行うことのすべてが、私たちの生活の祝福となるのです。このような恵と確信の中に生きるためには、私たちは、イエス・キリストを救い主として受け入れなければなりません。

まとめ)
1)愛を継続させること
互いに愛し合いなさい。私たちはイエスの基本的で中心的なこの戒めに留まらなければなりません。イエスご自身が繰り返しお命じになり、使徒たちが繰り返しをれを伝え、今、私たちがそれに従順するのです。

2)実践的な方法で愛を表すこと
他のクリスチャンを様々な方法で支援していくことです。祈ること、訪問することなどが挙げられます。迫害するクリスチャンを支援している団体などに献金や寄付をすることも一つの方法です。私たちのそのような実践が、仲間のクリスチャンの励みや助になるのです。

3)神の愛を自分の人格品性の土台とすること
私たちが何者であるかということについての自覚、自信は、私たちを愛してくださる神への信頼から来るものでなければなりません。イエス・キリストの愛の故に、神が私たちを離れ、見捨てることは有り得ないのです。