本日の礼拝ビデオ
聖書箇所:1サムエル14章6節ー23節
説教題:主がイスラエルを救うために用いたもの
導入)
この記事は、サムエルがイスラエルを導く預言者であった時のことです。イスラエルの民は彼らを守ってくれる王を立てることを要求しました。それで、王はサウルを王として立てました。しかし、ミクマスのに展開したペリシテ人との闘いで、神様が用いられたのは、サウルではなく、彼の息子のヨナタンでした。この聖書箇所に現わされている、神の御心を確認してみましょう。
本論)
6節、7節 6節のヨナタンの言葉に表されていることは何でしょうか。先ず、神の契約への信頼と確信が表れています。ペリシテ人のことを「割礼を受けていない者ども」と表現しています。しかし、ヨナタン自身は割礼の者であり、ユダヤ人として神との契約のしるしを持っている者でした。次に、彼は敵は彼の力によって制圧できるものではないことを理解していました。もし、自分の実力で何とかしようと思ったなら、敢えて道具持ちと二人きりで敵に向かおうとは思わなかったでしょう。彼は神の恵みに信頼し、また神の恵みによって成功することを期待したのです。彼は、神の主権と権威を認識していたのです。彼は、たぶんという表現を用いましたが、それは疑いや迷いではなく、主の主権に委ねた謙遜な姿勢と理解することができるでしょう。ヨナタンの告白は、敵に攻められて神に祈り求めたアサ王やヨシャパテ王の祈りを思い出させるものです。(2歴代誌14章11節、20章5節参照)このような時、同じ信仰の態度をもって応援する道具持ちが共にいたことは、大きな励ましとなったことでしょう。
8節‐12節 ここでヨナタンは敵との闘いに出ていくべきか否かを、実践的なしるしをもって知らせてくださるように、神に願います。9節の条件は、敵が戦う心構えができていて、正面から戦うのを避けるべき状態だと判断できます。10節の条件では、敵は油断しているか、臆病な部分が有るかで、パニックに陥りやすい部分が有ると判断できます。彼は神を信頼していましたが、同時に神の導きを求める用心深さを持っていました。神は出ていくことを示されました。
13節‐15節 ペリシテ人の陣とイスラエル人の陣は、東西に走る谷を挟んで対峙していました。ですから、互いに行き来するのは難しかったのですが、唯一南北に谷を横切る渡し、小道が有りました。ペリシテ人たちは、彼らが通行しやすい渡しを通ってくると予想したに違いありません。しかし、ヨナタンたちは崖をよじ登って行きましたから、彼らの前に突然姿を現すことになりました。崖をよじ登った後に戦うのは容易なことではなかったかもしれませんが、しかし、急襲による優位さが有りました。一くびきの牛が一日に耕す畑の半分という面積の記述が有ります。実際の広さの記述ではなく、狭い範囲を表す慣用表現だとする理解も有ります。突然20名が敵に倒されるという有様は、一群の強敵に襲われたような印象になったのでしょう。ペリシテ人はパニックに陥りました。先陣の者、略奪隊は、最初に敵と交戦する兵士たちですから、勇敢で強い兵士たちの集まりなのですが、そういう彼らでさえパニックに陥ったというのです。地が震えた記述は、地震ともペリシテ人の大騒ぎとも取れます。
16節‐19節 間もなくサウルの陣営の見張りがその騒動に気づき、サウルに報告が入りました。17節のサウルの命令は、その騒動が、自軍の軍事行動によるものか、別の理由によるものかを確かめるものと思われます。後者であれば、出かけて行っても返り討ちに遭うことも考えられます。ヨナタンと道具持ちが行動を起こしたのだと分かりましたので、サウルは大祭司アヒヤに神の契約の箱を持って来させました。それは、神の御心を求めて祈るためでした。祭司は契約の箱に向かって手を挙げて祈るのです。ですから、サウルの手をしまうようにという指示は、祈りを中断せよという意味になります。彼は真心を持って祈る王ではありませんでした。騒ぎがますます大きくなるのを聞いて、出撃の良い機会だと思ったので、祈る間も惜しいと思ったようです。同時に、ペリシテ人の混乱に乗じて、ペリシテ人に屈してペリシテ軍に入っていたイスラエル人や、洞穴に隠れていたイスラエル人もペリシテ人攻撃に転じました。
ヨナタンと道具持ちが行動を起こしてペリシテ人を攻撃し、他のイスラエル人が合流してペリシテ人を打ち破りました。しかし、23節を読みますと、記者は、神がイスラエルを救ったのだと結んでいます。
まとめ)
神がイスラエルを救ったのですが、そのために用いられたのはヨナタンでした。神が用いられる人はどんな人なのでしょうか。
1)神は神に与えられた使命を果たす人を用いられる
サウル王の指名は、イスラエル人を周囲の敵から守ることでした。彼は、サムエルがそう指示したのでギルガルに出かけました。それは、神が彼に与えた使命が、ここではペリシテ人と戦うことだったということです。しかし、彼は行動を起こしませんでした。2節によれば、彼はただザクロの木の下に留まっていたということがわかります。一方で、彼の息子のヨナタンは、信仰を持って戦うために出て行き、成功しました。あなたのタレント、才能は何でしょうか。それらを神の栄光のために用いて行く時、イエスの体なる教会を建て上げるために用いて行く時、神があなたをお用いになるのです。
2)神は神を信じ、神の契約を信じる人を用いられる
ヨナタンは彼が割礼の民の一人であることを自覚していました。言い換えれば、神の契約を信じていたということです。神の民として、その戒めに従う時、神がイスラエルの領土を守り、作物を与えてくださるという約束が含まれています。6節の彼の言葉には、全能の神への信頼が告白されています。
私たちはクリスチャンと呼ばれています。私たちはキリストに属する者です。私たちは悔い改めて、霊的な割礼の者であり、心の変化を神の恵みを通していただいた者です。私たちは神の約束、神の守り、日々の必要を備えてくださっていることを信じています。私たちはイエス・キリストの血で義とされたことを信じています。ヨハネ3章16節、5章24節の約束を心に留めて、永遠の命をいただくことを信じています。ヨハネ15章の示す通り、イエスになければ私たちは何もできません。これらのことを信じている人たちを、神はお用いになるのです。
3)神は真心から祈る人を用いられる
サウル王は大祭司アヒヤと一緒にいました。彼はアヒヤに神の御心を求めて祈るように命じましたが、祈りの最中に止めさせました。自分の見聞きしたことに頼って行動したのです。彼は真心から祈る人ではありませんでした。13章9節でも、彼は約束の日が終わっていないにもかかわらず、サムエルの到着が待ちきれず、人々が離れて行くのを留めるためだけに自ら神に燔祭を捧げました。しかも、それは、レビ人にだけ許された行為だったのに、神の規定に背いてそうしたのです。一方ヨナタンは、謙遜に神への信仰と信頼を告白しました。彼の求めたしるしも、現実的で実践的なものでした。私たちもそのような模範に従うべきでしょう。私たちも祈りの中で神の御性質を告白し、神に栄光を帰するようにしなければなりません。そのような人たちを、神はお用いになるのです。