本日の礼拝ビデオ

聖書箇所:アモス3章
説 教 題:神の主権の下で

導入)
 アモスは北王国イスラエルの人々に警告をした預言者でした。それで、3章にもイスラエル、サマリヤなどの地名が出てきます。10部族はダビデ王家に反旗を翻して、分裂し、ヤロブアムを王に立てました。ヤロブアムは間もなくベテルとダンに金の子牛の像を作りました。建国の初期から、北王国は偶像礼拝で汚されていたことになります。その偶像礼拝の結果を、この3章にも見ることができます。この章からは次の三つの原則を見出すことができると思います。
1)イスラエルの民は特別に神に選ばれた
2)イスラエルの民は彼らの咎の故に罰せられた
3)神ははっきりと警告を発した

本論)
1)イスラエルの民は特別に神に選ばれた
  イスラエル(12部族として)が神に特別に選ばれた民であることが1、2節に示されています。これは申命記4章37節を元にした表現ということです。更に同様のことは、モーセの最後の祝福の祈り(申命記33章29節)、神がダビデに契約を与えた時の祈り(2サムエル7章23節)。神はイスラエルに特別の取り扱いをしてくださったのです。それは、イスラエルにだけ与えられた特権でした。クリスチャンも自分たちが神から与えられた特権が有ることを認識している必要が有ります。(エペソ1章3節‐8節参照)私たちはそれを当たり前に思ってはなりません。

2)イスラエルの民は彼らの咎の故に罰せられた
  2節の後半には、「それゆえ」と書かれています。特権が与えられたならば、その特権を与えられた者は、それに相応しく謙遜に生きなければなりません。反対に、特権を蔑ろにすれば、特権を与えてくださった方を傷つけることになります。相手が神であれば、その結果は明らかです。
3節から6節の一連の修辞疑問は、何かが起きたならば、それには必ず原因が有るのだということを示しています。神がイスラエルを罰するのは、そこに必ず原因が有るということです。3節は、神とイスラエルの合意が破られて、関係が壊れてしまったことを示しています。4節は、神はその原因を指摘して警告していました。5節は、神がイスラエルの罪を責め、鳥網を仕掛けているのだということを示しています。6節は、敵が攻めて来る時の警告の角笛を表し、既に警告は発せられたのだから、危機感を持てということを示しています。ここで神は、もし何かが起きたら、それは神の主権の元に起こしているのだと述べているのです。
  2節に示されているイスラエルの咎とは何でしょうか。その咎の様子は10節にも示されています。正しいことを行うことを知らないと述べられています。更に、暴虐と暴行を重ねているとも書かれています。それは、強奪と略奪とも訳せる語です。14節の「そむきの罪」と訳された語は、罪、違反、反逆というような語感が有ります。イスラエルは神に対して不従順であったのです。そこには偶像礼拝も含まれています。14節にはベテルの祭壇への言及が有ります。ベテルは先に述べたように、金の子牛が置かれた場所です。祭壇は複数形です。いろいろな偶像を礼拝するために幾つもの祭壇が作られたのでしょう。祭壇の角が出てきます。これは、四隅に角のような突起が作られていて、異教的理解では、それによって供物を縛って固定したり、儀式としてそこに血を塗ったりする場所で、最も神聖な部分と考えられました。犯罪者がそこにしがみつけば保護を要請できるとも考えられていました。しかし、神の罰が下る時には、それらの祭壇の角は少しも役に立たないのです。偶像も祭壇の角も、神の罰が下った時には、イスラエルの民の誰をも救うことは有りませんでした。後に、アッシリヤにイスラエルは破壊されてしまいました。その結果、イスラエルには、力もなく貧しい人々しか残されませんでした。12節がそのことの描写と理解されています。「獅子の口から二本の足、あるいは耳たぶを取り返すように」と有ります。あなたが羊飼いだったとしたら、ライオンと戦って羊を取り返そうとして、二本の足や耳たぶしか取り返せなかった、それを「救い出した」と考えることができるでしょうか。人間的に見た時に、死んだ羊の二本の足、あるいは耳たぶは価値が有りません。同様に、イスラエルに残った人たちも、社会的には力の無い人たちだったということです。

3)神ははっきりと警告を発した
  神は突然イスラエルを罰するということはしませんでした。神は繰り返しイスラエルに警告をしてきました。この章だけを見ても、「聞け」「神は言われた」という内容の言葉が7回ほど出てきます。神は明確に警告を発していました。7節にはっきりそのことが示されています。神からのはっきりした警告は、クリスチャンに対しても、使徒たちを通して与えられています。パウロは神の恵みをむだに受けないように警告しています。(2コリント6章1,2節)ヨハネは第一の手紙を「偶像を警戒しなさい」という言葉で閉じています。ペテロは、義の道を知りながら背くよりは、知らなかった方が良かったのだ述べています。それらの警告を心に留めて、私たちは時々自分を吟味しなければなりません。

まとめ)
1)イスラエルの民は特別に神に選ばれた
  私たちもイエスの証人となるように、神に選ばれた民です。神の聖徒となるように選ばれました。私たちの人生は、イエス・キリストへの信仰によって、神に受け入れられる生きた供え物です。神は私たちに執り成しの祈りを委ねられ、聖なる祭司、王である祭司とされました。(1ペテロ2章5節、9節)キリストにあって、何と素晴らしい特権をいただいていることでしょうか。この自覚を持っていくのです。

2)イスラエルの民は彼らの咎の故に罰せられた
  私たちの内に残っている肉の性質のために、信仰によらず行動をしてしまうことが有ります。そのような行動や状態が罪となります。私たちは、それに気づいた時に、それをほったらかしにしてはなりません。繰り返し悔い改めていくのです。もし、私たちが意識的に神の命令に全く従わないようになれば、その報いを受けなければなりません。罪は、最後には、私たちを満足させるのではなく、私たちを破滅に導くものです。(ローマ6章23節をお読みください)

3)神ははっきりと警告を発した
  罰は警告無しに来ることはないのだという神の言葉がアモスによって7節に示されています。また、罰は理由も無しに与えられるものではありません。3節の警告を心に留め、神を離れず、むしろ神と共に歩まなければなりません。イエスは「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われました。くびきを負えば、共に歩くことになります。(マタイ11章29節)そうするために、聖書に示された神の警告と戒めを注意を払い、自分自身を吟味しましょう。聖書を続けて読みましょう。