本日の礼拝ビデオ 前半 後半

聖書箇所:1 テモテ3章1節~13節
説教題:長老と執事

導入)
 私たちの小会では間もなく長老、執事の信任投票が有ります。牧師、小会議長として、聖書が長老と執事について述べている箇所を確認したいと思います。

本論)
1節 先ず、1節の「監督の職につきたいと思うなら」に目を留めます。監督というのは、現在では牧師や長老の役目です。また、「思う」という部分は、「心を定める」というような訳を当てている聖書も有ります。単なる思い付きではないのです。当時はクリスチャンになることは容易なことではありませんでした。場合によっては親族や社会から切り離されてしまうことも有りました。仕事を失ったり、商売相手にしてもらえなかったりして、生活のために他所に移動しなければならない場合も有りました。そんな状況で長老になるというのは、更に苦労をしょい込むことになるのでした。長老になろうと思う人は、パウロのように苦しんだり泣いたりする覚悟ができているということだったのです。

2節から7節には、長老に求められる14の資質、性質が挙げられています。

2節 最初の五つは、良い人格や自制に関わるものです。長老になる人は、よく自制する人でなければならないのです。また、結婚に誠実な人でなければなりません。もし長老になる人が独身であるならば、女性に対して誠実で純潔な人でなければならないということになります。六つ目のよくもてなすというのは、同信のクリスチャンを守るという側面が有ります。「もてなす」と訳された語は「馴染みの無い人を愛する」というような語感が有ります。もてなさなければならない背景が有りました。当時の宿屋はあまり安全ではありませんでした。持ち物がよく盗まれたりしたようです。また、宿屋は売春婦が出入りしていて、クリスチャンにとって好ましい場所ではありませんでした。ですから、旅行しているクリスチャンや伝道者に宿を提供することは大事な奉仕でした。また、福音の知識が有るばかりではなく、それを教える能力が必要です。長老の業務には教えることが含まれているのです。

3節 この節に出てくるものが示しているのは、長老は偶像礼拝者であってはいけないということです。仏像やご神体を拝むという行動だけが偶像礼拝なのではありません。神以外のものを頼みとすることが偶像礼拝です。4つの条件が否定形で示されています。苦しみや悲しみを酒でまぎらわそうとすることは、神以外のものに頼る行為ですから偶像礼拝になります。暴力的で争い好きな傾向も、神以外の方法で自分の身を守り、自分の思いを守ろうとする偶像礼拝になります。また、神の恵みではなく、金銭、経済力で自分の思いを満足させ、守ろうとすることも偶像礼拝になります。長老になる人は、神への信仰抜きで物事の解決を求める姿勢を持っていてはいけないのです。

4節―7節 この部分には「でなければいけません」という感覚で、三つの実践的な要件が述べられています。家庭を治めるという表現ですが、「先に立つ」という語感が有ります。威厳というのは、「適切な敬意を払われる」という性質を表します。このような性質は、人間的に良い人というだけでなく、聖霊の働きとイエスの教えへの従順を通して霊的な実を結んでいる人という側面が大事です。(ガラテヤ5章22、23節参照)次に、信者になったばかりではいけないということです。信者になったばかりの人と訳された語は新芽を表す語が用いられています。若いうちに高い評価を得たために、態度が尊大になって結局成功しなかった人の話は私たちもよく見聞きするのではないでしょか。7節は、その人が良いキリストの証人でければならないことを示しています。教会外で評判が悪ければ、教会全体の印象も悪くなります。また、そういう非難が集まってくれば、本人も悩みや怒りから間違った行動をすることになるかもしれないからです。悪魔のわなというのはそういう部分であると考えられます。

8節―10節 ここからパウロは執事の資質に移ります。「執事もまた」という表現で始まっています。執事の役割は、長老の監督のもとに長老を補佐し、教会の人々を援助することです。ですから、彼らの資質も長老の資質とほぼ同じようなものにならざるえをえません。それで、「執事もまた謹厳でなければならない」ということになるのです。謹厳と訳された語は、威厳や敬意を得るような立ち振る舞いについての表現です。二枚舌を使わないというのは、誠実な人だということです。同じ事柄について、別々の人に別々の内容で説明するような人ではいけないということです。執事は大酒のみで不正な利をむさぼってはいけないというのは、3節に出てくる長老の資質と同じです。教えることは執事に特に求められてはいませんが、聖書の真理をよく理解していて、キリストへの純粋な信仰を持っていなければなりません。奥義という表現は言語ではムステリオンという語で、以前は隠されていたが、今は明らかにされた物事という意味が有ります。イエス・キリストによる救いという福音の真理は長らく人類に隠されていたのですが、三位一体の神の働きによって人類に明らかにされたのです。10節では審査を受けさせなさいと命じられています。それは、管理能力が有るかとか、実行力が有るかなどということではありませんで、執事の人格や霊性を確認する時間を取りなさいということです。非難される点が有ってはならない部分も、2節に有る長老の資質と同じです。

11節 パウロはここで婦人執事に目を向けます。「婦人執事も」という表現で、この人た
ちも長老と同じような資質を持っていなければならないことが示されています。「威厳があり」という部分から始まるように、彼女たちも人々の敬意を受けるような立ち振る舞いをする人物であることが要求されています。婦人執事独特の要素というのは、「悪口を言わず」という部分です。事実でないことを言って人を非難するようなことを指しています。注解書は、「昔の社会では男性たちは度々妻の言動をもとにしてばかにされることが有った。昔の社会においては、噂話というのは男性よりも女性がすることとして、より女性にに関連付けて考えられた」という説明をしています。続く自制してすべてのことに忠実であるという資質も、先に述べられた長老や執事のものと同様です。

12節でパウロは再び執事の資質に戻って述べています。それは、2節と4節に述べられた長老の資質と同じ、結婚に誠実な人で家庭を適切に収めている人ということです。13節では、執事の仕事をりっぱに果たす人は、他人にそれが判るようになるということです。また、執事本人は、そういう実践を通して神への信仰と確信が深まり、強くなるということを述べています

まとめ)
長老や執事になる人の資質を確認してきました。しかし、それはそういう役割を担う人々に任せっぱなしにしておけることではないのです。私たちもこの聖書箇所から理解し、学ばなければならないことが有ります。

1)クリスチャンはイエスの教えと霊的性質を反映させた生き方をする
  ガラテヤ書の5章22、23節を先に確認しました。それらは長老の性質にも表れてはいますが、全てのクリスチャンが目指さなければいけないことです。長老や執事に任せっきりにするのではなく、私たちもそういう霊的成長を目指していくのです。

2)クリスチャンは誰が長老・執事の役割を担う資質を持っているか理解する
  当時から偽教師や偽兄弟が教会に問題を持ち込んでいました。ですから、本当に神の教えに従っていて、長老や執事になる資質を持っている人が誰であるかを、教会の人々は知っていなければならず、そういう人物を選ぶ目をもっていなければなりませんでした。
  私がアメリカで2年お世話になった教会の牧師から聞いた話です。彼が教会開拓チームを立ち上げた時、ある人がやってきて、「私を長老にしてくれるならば、開拓をお手伝いしましょう。」と言ったそうです。もちろん、そういう人物が長老になってはいけないわけで、お断りしたということでした。

3)クリスチャンはこれらの資質を持つ者となることを目指す
  私たちが長老や執事に選ばれることがなかったとしても、1)の延長として、私たちも長老や執事になる人の持つ性質や資質を持つことを目指さなければなりません。それは、ペテロが迫害下にいるクリスチャン全員に2ペテロ1章5節~8節でした奨励の内容にも通じることです。