本日の礼拝ビデオ
聖書箇所:マタイ11章1節~5節
説 教 題:おいでになるはずの方は、あなたですか
導入)
マタイはイエスが弟子たちを伝道旅行に送り出す前に与えた指示の記録を残しました。その指示の中心的な原則は神への確かな信頼でした。1節に記されているように、弟子たちは出かけて福音を広げに行きました。2節からは、バプテスマのヨハネに関わって話が展開しています。
本論)
2節‐3節 弟子たちが宣教に出かけた知らせはバプテスマのヨハネにも伝わったと思われます。それが、彼に疑問を持たせることになったようです。3節の疑問の意味は、「あなたはメシアではないのですか。」ということになります。ヨハネはイエスをこの世を裁き、正義を打ち立てるメシアとして紹介しました。(3章12節参照)ヨハネにとっては、イエスがしていることが、そのイメージには合わなかったのではないかと思われます。この時ヨハネはヘロデに投獄されていました。彼が弟の妻を自分の妻にしてしまったことを責めたためでした。しかし、イエスがヘロデを戒めるようなことは有りませんでしたし、ヨハネを助けにも来てはくれなかったのです。それで、一体イエスはメシアなのだろうかと彼は思ったようです。
4節‐6節 イエスは直接的な回答はしませんでした。5節の内容はイザヤ35章5,6節や6章1節の引用と考えられます。それはメシア預言と考えられます。旧約の預言者の中で盲人も目を癒した者はいませんでした。ですから、イエスの癒しの業はメシアであることの完璧な証であったのです。ヨハネは彼の先入観のために、一時的にイエスにつまずいたかもしれませんが、聖書の記述に基づいて、イエスはメシアだと信じたに違いありません。私たちも信仰的につまずくことが有るかもしれません。ヨハネと同様に私たちも聖書の言葉に信頼していかなければなりません。イエスはメシアであり救い主であると信じなければならないのです。ですから、イエスは「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と言われたのです。
7節‐9節 バプテスマのヨハネはイエスが何者であるかを証しました。ここでは、イエスがヨハネが何者であるかを証しています。彼は荒野で活動していました。人々が会いに行ったヨハネは、風に揺れる葦のようではありませんでした。それは、頼りなく不確かなものという意味です。また、柔らかい服を着ているような人ではありませんでした。人々は、権力や財力が有る人を求めていたのではありませんでした。ヨハネはラクダの毛の衣を着て皮のベルトをしているような人物でした。イエスが語るように、彼らが求めていたのは霊的な道を示す預言者でした。しかし、9節でイエスは、ヨハネはただの預言者ではなく、偉大な預言者だと言ったのです。
10節‐11節 ヨハネは特別な預言者でした。彼の出現が旧約聖書に預言されていたからです。それに、彼は母親の胎にいる時から聖霊に満たされた存在でした。更に、彼の使命はメシア到来の道備えをし、メシアを証することでした。彼は唯一無二の存在だったのです。11節でイエスは、「まことに、あなたがたに告げます。」と言っています。わたしの言うことを注意深く聞いてよく理解しなさい、ということです。彼はそれまでに生まれた人間の中で一番偉大だというのです。それは彼の能力のためではなく、特別な使命のためでした。続く記述はどう理解したらよいのでしょうか。この天国で一番小さい者とはどんな者のことかを考えます。文脈を辿れば、直前の10章42節で、イエスは12弟子のことをこの小さい者たちと呼んでいます。すると、これは、たとえ12弟子の中で一番小さい者だったとしてもヨハネより偉大だと言ったことになります。イエスの弟子たちは、ヨハネと同様にイエスがメシアであると証言しただけでなく、イエスの教えを伝え、人々を永遠の命に導く働きをしていました。ですから、弟子たちは更に進んだ使命を果たしていて、ヨハネより偉大だと考えることができます。そして、この記事は、弟子たちの宣教旅行への派遣の直後に配置されていますから、理にかなった考え方と言えそうです。
12節‐14節 バプテスマのヨハネがイエスを証して以来、イエスの元に弟子たちが集まり始めました。アンデレは最初はヨハネについていましたが、直ぐにイエスの弟子になりました。そして、多くの群衆が神の国のメッセージを求めてイエスの元に集まるようになりました。パリサイ人や律法学者よりも、収税人や遊女が悔い改めて神の国に続々と入っていくことが起き始めていたのです。それが12節の意味するところです。13節は、そこに至るまでに多くの預言者の働きが有り、ヨハネが旧約に属する最後の預言者であることを述べています。14節でイエスはヨハネが正真正銘の預言者であることを述べています。彼の証を信じるならば、それは正真正銘のメシアであるイエスに出会うことになります。その時にこそ、その人にとっては、ヨハネは旧約聖書に預言された来るべきエリヤとなるのです。
15節 ここで、イエスは時々繰り返して用いる表現で警告をしています。バプテスマのヨハネの証を受け入れとイエス・キリストを受け入れることが神の国へのカギとなるのです。ですから、謙遜に聞く耳を持って神の言葉をを受け入れなさいということです。
まとめ)
「おいでになるはずの方は、あなたですか。」という質問は、言い換えれば、「イエスは救い主ですか。」ということです。それは、私たちクリスチャンが問う場合もある質問でしょう。私たちはその質問の正しい答えを知り、それに基づいて行動し、生きなければなりません。
この箇所から読み取ることのできるポイントを次のようにまとめてみたいと思います。
1)キリストの教えである福音が語られ広がらなければならない
この聖書箇所の前後関係を見る必要が有ると思います。マタイは、イエスが伝道旅行に送り出す前の弟子たちに与えたかなり長い指示の後にこのエピソードを配置しています。そして、福音伝道をする弟子たちはバプテスマのヨハネよりも偉大だと言っているのです。その福音は、正統で聖書的でなければいけません。その伝えるところは、イエスは救い主であること、イエスを信じる者は神の業に参与する者であり、裁きに合うことがなく、永遠の命に移されているということです。
2)聖書が私たちの知識・信仰の基でなければならない
バプテスマのヨハネの疑問への回答は、聖書の言葉でなされました。イエスは13節でも、旧約聖書への言及をしています。私たちは神の言葉である聖書の記述を信頼するのです。また、イエスは、「だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」「耳のある者は聞きなさい。」と、繰り返し警告しています。それは、聖書の言葉を信じなさいということにつながっていきます。
3)天の国は継続的に希求されなければならない
12節で、天の御国が激しく攻め取られるという表現が有ります。激しくと訳された語には、家畜などがどっと出てくる、ほとばしり出るような語感が有るそうです。そのような勢いで天の国がこの世に到来し、また、それを求める者がこぞって天の国に入っているのです。天の国は私たち信じる者の生活の中にも更に広がり、深まる必要が有ります。また、そうなることを私たちが希求する必要が有ります。イエス御自身がその必要をお示しになり、主の祈りで「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈るように教えておられます。