赤毛のアンの物語の中心的な役割を果たすものの一つのは、親友のダイアナの存在であると思います。そして、アンとダイアナの友情のアイディアは聖書にヒントを得たものではないかと私は思います。
 聖書の中で特筆すべき友情は、ダビデとヨナタンの友情です。そして、この二組の親友には少なからず共通点が有るのです。引用や説明で少しばかり長くなりますが、ご容赦ください。聖書の引用は、日本語は口語訳、英語はKing James Version からのものです。

アンの容姿
 イスラエル統一王国の二代目の王となるダビデの描写には、アンを思わせる部分が有ります。
1サムエル記16章12節
「彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。」
“Now he was ruddy, and withal of a beautiful countenance, and goodly to look to.”
同17章42節
「ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。」
“And when the Philistine looked about, and saw David, he disdained him: for he was but a youth, and ruddy, and of a fair countenance. ”

 「血色がよく」と訳されたヘブル語は、単純に赤い、赤味のさしたという意味です。創世記25章25節で、生まれたばかりのエサウが赤かったという記述に使われています。双子の弟であるヤコブには用いられていないことと、生まれたエサウの全身に体毛が有ったという記述から、髪も赤かったのではないかと考える学者もいるわけです。そういうわけで、ダビデもアンと同様に赤毛だったのではないかと想像する学者もいるようです。(ダビデは若くて血色が良く、頬が赤かったと考える方がより支持されている考えではありますが。)
 もう一つの共通点は、目がきれいで姿が美しかったことです。アンの目や鼻が奇麗であるという記述や、後に背が伸びた時の姿の記述が思い出されます。

 アンは孤児となった自分の人生と、アボンリーでの新しい生活に果敢に挑んで将来を切り開いて行きます。ダビデは敵であり、彼を侮ったペリシテ人の巨人、ゴリアテに信仰をもって果敢に挑んで行き、勝利します。アンの武器はいつも心を駆け巡る豊かな想像力で、ダビデの武器はいつも使い慣れていた石投げでした。ダビデは孤児ではありませんでしたが、息子を呼べと預言者サムエルが父親のエッサイに命じた時に、エッサイはダビデを呼びませんでした。もしかすると家族の中では比較的冷遇されていたのかもしれません。彼は羊飼いとしての経験を積んでいました。そういう苦労人な面も、アンと重なるように思います。

友情の誓いを立てる
 このゴリアテとの闘いに勝利した直後に、初代王のサウル王の王子、ヨナタンはすっかりダビデが気に入ってしまいました。その様子は聖書に次ぎのように記されています。
1サムエル記18章:1節,3節
「ビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。」
“ And it came to pass, when he had made an end of speaking unto Saul, that the soul of Jonathan was knit with the soul of David, and Jonathan loved him as his own soul. Then Jonathan and David made a covenant, because he loved him as his own soul.”
 アンとダイアナが初めて会った日から意気投合して、親友の誓いを立てる様子に重なっているように思えます。もっとも赤毛のアンではアンの方からダイアナに話を持ち掛けていますが、聖書の方はダビデではなく、ヨナタンの方から友情の誓いを持ち掛けているように思われます。ダイアナは、育ちが良い様子で、母親のバリー婦人のことをマリラは気難しいと表現しています。王子であるヨナタンの育ちの良さと、後に気難しい王となるサウル王が重なってくるように思います。

親によって交際がゆるされない
ダビデとヨナタンの友情は生涯続きましたが、実際に顔を合わせて親しく過ごすことができる期間は短いものでした。サウル王は、ダビデに王座を奪われることを恐れて、二人の友情を好ましく思っていませんでした。命の危険を感じてダビデは逃げていきます。この部分が、アンが故意にダイアナをカラント・ワインで酔わせたと思って怒ったバリー婦人が二人が遊ぶことを禁じた部分に重なります。

合図の使用 
サウル王の殺意を知り、ダビデは逃亡しますが、その前に、ヨナタンは父サウル王のダビデに対する気持ちを確認し、それを二人で決めた合図によって知らせる約束をします。

1サムエル記20章20節~22節
「わたしは的を射るようにして、矢を三本、そのそばに放ちます。そして、『行って矢を捜してきなさい』と言って子供をつかわしましょう。わたしが子供に、『矢は手前にある。それを取ってきなさい』と言うならば、その時あなたはきてください。主が生きておられるように、あなたは安全で、何も危険がないからです。しかしわたしがその子供に、『矢は向こうにある』と言うならば、その時、あなたは去って行きなさい。主があなたを去らせられるのです。」
“And I will shoot three arrows on the side thereof, as though I shot at a mark. And, behold, I will send a lad, saying, Go, find out the arrows. If I expressly say unto the lad, Behold, the arrows are on this side of thee, take them; then come thou: for there is peace to thee, and no hurt; as the LORD liveth. But if I say thus unto the young man, Behold, the arrows are beyond thee; go thy way: for the LORD hath sent thee away.”

 ダビデがサウル王の元から逃げ出した後、彼がヨナタンと会った回数は非常に限られていたと思います。聖書の記録では一度しか確認できません。(23:16参照)一方アンは、ダイアナの妹ミニー・メイの命を病気から救い、バリー婦人はダイアナと遊ぶことを許してくれました。二人はそのあと、ろうそくの明かりで送る合図を決めて、その説明が19話に出てきます。ダビデとヨナタンは別れの場面で二人で決めた合図を使いましたが、モンゴメリは、アンとダイアナには親友としての交流が回復した時に合図を決めるようにプロットを書いています。ダビデとヨナタンの友情は悲劇的な展開になりますが、モンゴメリはアンとダイアナの友情を温かく楽しいものとして書くことによって、その悲しい印象を自分の中で明るいものに変えたかったのではないかと想像します。また、アンとダイアナの友情が、ダビデとヨナタンの友情のように深く確かなものだという印象を持たせたかったのではないかと思います。

 ダビデはこの後、神の命令通り、統一イスラエル王国の二代目の王になります。イスラエルの国旗の中心にはダビデの星が据えられていて、ユダヤ人にとっては誇らしい存在です。また、神はダビデの子孫に永遠の王座を約束します。それは実際の地上の王座のことではなく、系図上はダビデの子孫として生まれるイエス・キリストの来臨と天国の統治の預言になっています。

 ヨナタンは王子として忠実に職務をまっとうします。また、神への信仰に立ち続け、ダビデが神に選ばれたことを受け止めていました。必要な時にはダビデと密会して、彼を励ましています。また、これから戦死することがはっきりわかっている戦闘にも勇敢に出かけて行きました。ダビデは親友ヨナタンの戦死の報に触れて、「わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。」” I am distressed for thee, my brother Jonathan: very pleasant hast thou been unto me: thy love to me was wonderful, passing the love of women.” (2サムエル記1章26節)と悲しみの詩を詠んでいます。旧約聖書に出てくる人物で心に留まる人は誰かと問われれば、私はヨナタンの名を挙げたいと思っています。