聖書箇所:エレミヤ17章14節~18節
説教題:迫害された預言者の祈り
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導入)
エレミヤはユダ王国の王や民に、主に立ち返るように警告をした預言者でした。また、もし民が悔い改めなければ、バビロンによってユダ王国が滅ばされるという預言もしました。当時のユダ王国の霊的な堕落は1節、2節に表されています。金剛石で石板に書き記すということは、その内容が明らかで重要だということです。それぐらい、彼らの罪や堕落は明らかだったということです。彼はその預言のせいで、しばしば不当な扱いを受け、迫害されました。人々は彼の命を付け狙い、同様な預言をしていた預言者が殺されたことも聖書には記録されています。悩みの中で、彼は主に祈りました。

本論)
14節 彼の心は痛んでいました。苦悩の内に不信仰から神から目をそらしてもおかしくない状況でした。それでも、彼は神に目を向けました。彼は、自分の力では癒されることのないことを理解していました。神だけが彼に必要な解決を与えてくださる方だとわかっていたのです。それで、彼は神に向かって、「癒してください」、「救ってください」と声を上げて呼ばわったのです。私たちも、苦しい時には、何事もないかのようなふりをしなくても良いのです。また、霊的に成熟している者のようなふりをする必要もありません。

15節 彼の嘆きの理由は、同胞の彼に対する敵意でした。彼がエルサレムの崩壊を預言すると、人々は彼を、国家の安泰を望まない裏切り者だと考えました。「ああ」という感嘆詞は、元来「見よ」と訳される言葉で、エレミヤが切実に神の注意を引きたかったことがわかります。神に、人々の嘲りの言葉を聞いてくださいよ、と呼び掛けているのです。人々は彼の預言の正当性を攻撃しました。本当に神の言葉を聞いたのか、そうだというなら、どうしてその預言は成就しないのか、と責め立てているのです。「さあ」と訳された語は、祈るという意味も有ります。「お前の預言が成就するように祈ってやろう」というような皮肉も込められていると考えられます。
これは、エレミヤにとってはアイデンティティーの危機とも言える状況でした。私たちクリスチャンが周囲の人たちに信仰の故に馬鹿にされたりすると、私たちにも同様な影響が有るかもしれません。

16節 ここでエレミヤは、自分に強い召命の確信が有ることを訴えかけています。彼は神の預言者として認識されることを拒んだことは有りませんでした。人々は彼を裏切り者と考えましたが、彼自身がエルサレムの崩壊を望んだわけではありませんでした。彼の望みは民が神の警告を受け入れて悔い改め、神との平和を持つことでした。それに、彼が民に語ったのは、自分で考え出したものではなく、神の言葉でした。言い換えれば、自分が神に忠実であったことを覚えていてくださいと訴えかけていることになります。

17節 彼の神への訴えは続きます。ここでは、エレミヤの神の言葉への信頼が示されています。神が仰せになったのだから、災いの日はきっと来る。だから、その日エルサレムにいるであろう自分をどうぞ守ってください、と神に願っています。私たちクリスチャンにとっても、神がいつも私たちの避け所でなければなりません。

18節 エレミヤの言葉は、呪いのようにも思われますが、むしろ、神の言葉は成就するという強い確信の宣言になっていると考えられます。実際に預言された災いの日が来ると、馬鹿にして預言が成就したので、人々は恥を見ることになりました。バビロン軍がエルサレムを包囲した時には恐れおののいたことでしょう。その時、神の言葉は必ず成就することと、神の守りは確かなことを確信していたエレミヤは平静を保っていたことでしょう。こうして、悔い改めず、エレミヤを迫害していた民に、災いの日は臨んだのでした。「破れを倍にして」という表現はどういうことでしょうか。一つ目には、実際に国家的破壊が彼らに臨んだということでしょう。二つ目には、神の預言者の言葉を拒絶して迫害した彼らの罪の結果に苦しんだということと思われます。多くの人々はバビロンに捕囚として引いていかれました。エレミヤの祈りは神に聞かれ、応えられたと考えられます。

まとめ)
オーストラリアに住んでいると、神への信仰を理由に命を狙われるようなことは無いかもしれません。それでも、時々迫害と思われることは起きています。クリスチャンの学生や活動家の平和的反対運動や意見表明が、暴力で退けられることが有ります。オーストラリアン・クリスチャン・ロビーという政治団体の事務所は、荒らされたり放火されたりしたこともあります。

私たちは、エレミヤのような預言者ではありません。けれども、彼と同様に、神のみ言葉への強い確信を持っています。そのせいで、直接、間接を問わず馬鹿にされるようなことも有ります。インターネットの記事で、信仰を否定したり非難するようなものを読めば、気持ちが沈むようなことも有るかもしれません。そのような時、この迫害された預言者の祈りを思い出してみましょう。

1)私たちは祈りの内に神の癒しを求める必要が有ります(14節)
  真の慰めは神から来るものです。(イザヤ2章22節参照)神の御前に出て、心の中に有る思いを打ち明けて神の癒しと慰めを求めるのです。そうすることは、私たちの神に対する信頼を告白していることにもなるのです。そのような祈りが、私たちの神に対する賛美と礼拝になり、私たちが神にたいする生きた供え物になるのです。

2)私たちは神のみ言葉に固く立つ必要が有ります(16節)
  私たちは預言者ではありません。しかし、私たちも聖書を通して永遠の神のみ言葉を聞き、知っているのです。私たちは、聖書が神の言葉であるという確信を持っていることを認めることを躊躇することはありません。聖書に書いてあることは本当のことと信じています。だから、キリストの再臨は有ると告白し、キリストは私たちを天の家に迎えてくださると告白するのです。

3)私たちは神の守りを求める必要が有ります(17節)
  バビロンの軍隊がエルサレムを陥落させた時、エレミヤは守られました。私たちは神がどのように私たちを守ってくださるか知りません。それでも、たとえ神の怒りが臨んでいると思われるような状況においても、私たちを守ってくださるように祈り求めることができるのです。