聖書箇所:1ペテロ3章13節~17節
説教題:キリストをあがめなさい (今週の説教音声は有りません)
導入)
ペテロは小アジアのクリスチャンに対して手紙を書いています。彼らはキリストに対する信仰の故に迫害されていました。ペテロは彼らを励まし続け、どのようにするべきかを指示しています。
本論)
13節は一般的な倫理的規範のようにも思えます。しかし、それは、彼らがクリスチャンである故に経験している迫害に関わるものです。善に熱心であるというのは、キリストの戒めに従っているということです。もし私たちがキリストの戒めに従って留まり、キリストが私たちと共にいるならば、神は私たちを守ってくださいます。(イザヤ50章7~9節参照)
ペテロは更に、キリストの義、神の国の福音のメッセージのために苦しまなければならないとしても、それは幸いだと言っています。幸いだという語は、山上の垂訓でもちられているのと同じ語です。(マタイ5章11、12節参照)ペテロの中には主イエス・キリストの教えが確実に留まっていました。その原則は私たちにも適用されることです。ペテロはイザヤ8章13節を引用して、神に信頼し、神をあがめることの重要さを私たちに思い起こさせています。引用元になっているイザヤ書の記事においては、アハズ王がアッシリヤの圧力に苦しんでいました。イザヤはアハズ王にそのアッシリヤと同盟を結んではならないと警告し、神を畏れ、神をあがめるようにと告げたのです。ここまでの内容から引き出される原則は、
1)困難の中に在っても完全に神に信頼してキリストをあがめなさい ということになります。
ペテロはイザヤ書の言葉を少し異なった仕方で用いています。「心の中でキリストを主としてあがめなさい。」と言っています。「あがめる」と訳されている語は、主の祈りで、「御名があがめられますように」という表現に用いられている語です。ペテロは迫害の中でどのように神をあがめるべきかを指示してます。先ず、キリストにある希望について説明できる準備を整えてです。その希望は聖霊とキリストを通して私たちの中に在ります。しかし、私たちは更に、その説明ができるように準備ができていなければなりません。そのために、私たちは福音をよく理解していなければなりません。そのためには、キリストにある希望がどのようなものかを日々確認し、思いめぐらさなければなりません。ペテロの直接的な指示は、弁明がきる用意をしておくということです。それは、法廷で自分のために弁明するのと同じ用語です。もし法廷に立って、自分を弁護しなければならないとしたら、きっと時間をかけて準備をするのではないでしょうか。同様に、私たちはキリストにある希望を説明することができうように準備をしておかなければなりません。私たちが時間をかけて、神がキリストを通して私たちを救うためにしてくださったことを思いめぐらし、あるいは、実際にキリストにある希望がどのようなものかを説明する時に、私たちは、心の中で、キリストを主としてあがめているのです。また、私たちのキリストへの信仰について弁明する時、わたしたちは優しく、慎み恐れてそうすることが求められています。時々クリスチャンは、自分に知識が有ると思って、信仰の弁明をする時に偉そうな態度になったりすることが有ります。しかし、それは神に栄光を帰する態度ではありません。それではキリストをあがめることになりません。16節の指示に従う時、私たちはキリストをあがめていることになります。ここまでの内容から引き出される原則は、
2)キリストにある希望について説明する準備をしてキリストをあがめなさい です。
更にペテロはキリストをあがめるために必要な態度について別の指示をします。それは、正しい良心を保つことです。この良心は、キリストの教えに土台した良心のことです。私たちの信仰の故に、教会の外の人々ばクリスチャンに悪口を言ったり、誤った非難をしたりします。当時のクリスチャンは、皇帝崇拝をしなかったなめに、無神論者だとか無政府主義者だと非難されていました。それは、誤った非難でした。今日でもクリスチャンに対して同様の誤った非難をする人たちがいます。クリスチャンは彼らを憎んでいるような誤解をしている場合も有ります。聖書は私たちに境界線を教えています。私たちは教会の中の人については聖書に従って裁く場合が有りますが、教会の外の人を裁くことはしません。(1コリント5章9節~13節参照)私たちは物事の境界線を認識していなければなりません。
次に、私たちは私たちの心を態度で表さなければなりません。私たちの信仰について誠実に説明をすることもそこに含まれるでしょう。そのような行いによって、クリスチャンを迫害する人たちが恥じるということをペテロは期待しています。恥じ入ると訳された語の語感は、「嘘つきであることが明らかになって恥じ入る」というものです。クリスチャンを迫害していた理由が事実に基づいていなかったことが判るということです。私たちはキリストにある良い行いを維持する努力が必要です。そのような態度や行いが伴わなければ、私たちの弁明や説明が教会の外の人には説得力が無い場合が出て来るでしょう。この部分から引き出される原則は、
3)健全な良心を保つことによってキリストをあがめなさい ということになります。
まとめ)
ペテロはこの箇所を14節で述べた原則を繰り返すことで締めくくっていいます。私たちンの人生は神の手の中にあるのです。たとえキリストのゆえに迫害や困難に合わなければならないとしても、私たちはキリストにあって幸いで祝された存在であることを覚えておかなければなりません。(2章19~22節も参照)私たちの幸いは、2章25節にあるように、キリストの元に帰ったことにあるのです。そういう認識を持って、私たちも、たとえ迫害や困難の中に在っても、私たちの生活を通して神をあがめて行くべきなのです。
1)困難の中に在っても完全に神に信頼してキリストをあがめなさい
2)キリストにある希望について説明する準備をしてキリストをあがめなさい
3)健全な良心を保つことによってキリストをあがめなさい