聖書箇所:マラキ3章1節~5節
説教題:尋ね求めているものを知る
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導入)
 マラキは旧約聖書最後の巻です。そこにもキリスト降誕の預言が記されています。およそ40
0年後にその預言は成就しました。1節には尋ね求める、望んでいる、という表現が出てきます。
この箇所にもメシアに対する渇望が表れています。この箇所から待降節、アドベントの精神を確
認します。

本論)
1)あなたが尋ね求める救い主は確かに来る・来た
  「見よ」という呼び掛けからこの箇所は始まります。それは、ここに書かれていることを注
 意して読み、理解しなければならないということです。マラキは、もし神の使者が来たなら、
 間もなく救い主を見るのです。見落としてはなりませんよ、と呼び掛けています。
  この箇所の記述から、当時の人々は明らかなイメージを持つことができました。王がある都
 市を訪問する時、その都市にはそれ知らせる使者が送られました。すると人々は王の訪問に備
 えて道を整備しました。この預言は、マラキの時代より300年ほど前にイザヤに与えられた
 預言の再確認でもありました。(イザヤ40章3節~5節参照)この預言はバプテスマのヨハネ
 の出現によって成就しました。そして、間もなくイエス・キリストの公生涯が始まりました。
  キリストについては二通りの表現がなされています。先ず、「あなたが尋ね求めている主」
 です。ユダヤ人はメシア、救い主の出現を待ち望んでいたのです。次に、「あなたが望んでい
 る契約の使者」です。彼らは、キリストがダビデの契約に基づいて来られるということを知っ
 ていました。(2サムエル7章12節‐13節参照)彼らには、そのような契約の成就であるメシ
 アの到来を強く望んでいたのです。そして、その預言は確実に成就し、イエス・キリストが来
 られました。そして、キリストの再臨も確実に来るのです。

2)救い主は人々をきよめるために来る
  マラキは救い主の到来を確認しましたが、彼の預言の雰囲気は2節から変わっています。待
 望の救い主が来たなら喜ばしいはずですが、「だれが、この方が来られる日に耐えられよう。」
 と言っているのです。
  ここに、私たちは、人々の期待と神の御計画が合致していないことを見て取ることができま
 す。人々が期待していたのは現世的解決や価値でした。彼らはペルシアを打ち負かして解放し
 てくれる強い王を待ち望んでいました。彼らは良い経済政策で国に繁栄をもたらす王を待ち望
 んでいました。
  マラキは「見よ。あなたたちの期待は間違っている。これがメシア、救い主がすることだ。」
 というようことを3節から述べているのです。救い主は、外国の勢力と戦うのではなく、ユダ
 ヤ人をきよめるんだということです。それはレビ人から始まるのです。
  3節は、救い主が座に着かれることを述べています。私たちが座る時は、一定の時間を費や
 して何かをしようと心を決めた時です。立ち話をする時は、直ぐ切り上げるつもりですが、座
 ればじっくり話すつもりだということがわかります。神は心を決めて、民をきよめようとされ
 るのです。金属の精錬の時には、じっくり腰を落ち着けて、火の状態を見たり、浮き上がる金
 粕を見落とさないようにしなければなりません。それは、金や銀が高価で価値が有るからです。
  同様に、神にとっては、契約の民は高価で価値が有るのです。神は民がきよめられることを
 望んでおられるのです。キリストへの信仰により霊的なアブラハムの子孫となった私たちクリ
 スチャンも、神にとっては高価で価値が有るのです。ですから、救い主を送られる神の意図は、
 神の民となるべき人々に永遠の価値を与えることだったのです。
  神のきよめの働きは、3、4節に示されています。神のきよめの業の結果として、民は義の
 ささげ物をささげる者となり、そのささげ物は、神に喜ばれ、受け入れられるのです。人間に
 は神の基準に達する義は有りません。イエス・キリストを信じる信仰によって義を着せていた
 だく以外に、神に喜ばれる義のささげ物をすることはできないのです。一旦、キリストによる
 義を着せていただいたならば、神の戒めに対する従順して歩む日常生活が、神の喜ばれるきよ
 いささげ物になるのです。それこそが、民が尋ね求め、望んだ救い主のなされることでした。
 しかし、民はそれを理解していませんでした。キリストが来られた時も、ユダヤ人の多くはそ
 れを理解できなかったのです。私たちは、霊的生活においてどのような救い主を尋ね求め、望
 んでいるのかを理解する必要が有ります。

3)救い主は神を畏れない者をさばかれる
  今回の朗読箇所は、2章の最後の節への回答になっています。その部分では、ユダ王国の人
 々は、神とマラキに言い逆らっています。彼らは悪を行う者たちだったわけですが、その悪行
 のリストが5節に有ります。神はそれを指摘して、彼らがさばかれることを示しています。
  クリスチャンとしましては、このリストは私たちに関係ないなと思えるかもしれません。し
 かし、これらの悪の行いの根底に有るものに注意する必要が有ります。5節の最後には、「わ
 たしを恐れない者たち」という言葉が有ります。恐れると訳された語は、あがめる、名誉を与
 える、尊敬するという意味も有ります。もし、わたしたちの生活のどこかに、神に栄光を帰さ
 ない態度や考えが有れば、その部分で神を恐れない者となることが有り得るのです。パウロも
 ガラテヤ書での警告は、そういう部分にも関係が有るのではないでしょうか。(ガラテヤ6章
 7-9節参照)

まとめ)
 アドベント、待降節には、私たちが尋ね求めるものが何であるかをはっきり確認する必要が有
ると思います。私たちは救い主を待ち望んでいます。イエス・キリストがその救い主です。キリ
ストは一時の助けではなく、永遠の救い主です。キリストの降誕の目的は、私たちをきよめるこ
とでした。キリストにきよめられれば、私たちの生活が、神に受け入れられるささげ物になるの
です。イエス・キリストを救い主として受け入れ、信頼する時に、それは起きるのです。私たち
が、イエス・キリストの血によってきよめられたゆえに、私たちは神の目に高価で貴いことを心
に留めて、生きた供え物としての人生を歩むのです。