聖書箇所:マタイ9章35節~38節
説教題:キリストの宣教様式
導入)
この部分は、イエスがメシア、救い主であることを証明する宣教の記述のまとめであり、同
時に弟子を宣教に送り出す10章への導入にもなっています。このまとめによるイエスの行動を
通して、その宣教様式がどのようなものであったかを確認してみましょう。
本論)
1)イエス・キリストは町々、村々をくまなく巡られた
教父の証言等によって、マタイによる福音書は先ずへブル語で書かれたと考える学者たち
がいます。ヘブル語における「巡られた」という語のイメージは、創世記2章11節に見るこ
ことができます。川が地域を巡り流れて全土を潤すところに用いられています。それと同じ
ように、イエス・キリストはユダヤの全土を巡り、命の水となる福音の宣教をされたのです。
イエス・キリストのなされたことは、教え、宣べ伝え、いやすということでした。会堂を
中心に福音を伝えるだけでなく、人々をいやされたのは、イエスが旧約聖書に預言されたメ
シアであることを証明するためでした。病気とわずらいは類義語、同義語ですから、繰り返
しによる強調です。また、肉体的なわずらいばかりでなく、精神的、霊的なわずらいや状況
に関する障害などもにも解決を与えることを示しているように思われます。
イエス・キリストは、人類の最も大きなわずらいである罪と死から私たちを救い出してく
ださいました。病気の癒しの奇跡は、イエス・キリストのもたらす救いへの導入にもなって
います。
2)イエス・キリストは人々を憐れまれた
36節にはイエスが人々をかわいそうにおもわれたことが記されています。「羊飼いのない
羊のよう」という表現は旧約聖書にも何度か出てくるものです。神の目にかなったことをし
ない王のもとでは、民も霊的に迷い出て弱り果てるのです。ユダヤの民はこの時ローマ帝国
の支配下にありました、宗教的指導者であるパリサイ人、律法学者たちは決して良い羊飼い
ではありませんでした。
エゼキエル34章5節~10節にもその様子が表されています。しかし、10節になると、
神が介入して羊を守ることが宣言されています。そして、それはイエス・キリストにおいて
実現したのです。
「かわいそうに思われた」という表現は、特別な表現が用いられています。ユダヤ教の会
堂でしか使われない専門用語だということです。四福音書の中では12回用いられ、いずれ
も神とイエスに関連付けて用いられています。この神の憐れみがどのようなものかは、エレ
ミヤ31章20節に表現されています。「それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、
わたしは彼をあわれまずにはいられない。」旧約聖書によく出てくる反復表現と考えられ、
前半の表現が後半の神の憐れみの様を表していると考えられます。わななくというのは、他
にうなり声を上げる、身もだえするという意味が有ります。神はそのような憐れみの心を人間
に対してお持ちになっていて、イエス・キリストはその心をもって宣教をしたのです。
3)イエス・キリストは神に忠実な働き手を求めている
38節でイエス・キリストは収穫について述べています。それは、天国に招かれる人天国に
入る人は多いということです。でも、イエス・キリストは、働き手が少ないと言っています。
そこで、38節の指示をされるわけですが、注目するべきことは、収穫 の主導権は「主」に
あるということです。新改訳でははっきり訳されていませんが、「収穫の主」と「彼(主)
の収穫」という意味の言葉が使われています。働き手も神によって送られた、神の心に忠実
な働き手である必要があります。
中心となる指示は「祈りなさい」ということになります。神に主導権が有るのですがそれ
でも神は私たちに祈ることを求めていらっしゃいます。この語も特殊な語が使われています。
「欠乏している、切望する、請い願う」ということを表す語になっています。とても強く熱
心に願い求める祈りということになります。神の憐みと熱意に倣って祈って欲しいというこ
とです。また、神が送られる働き手は、弟子たちをも含めて、そのような憐みと熱意が必要
であるということにもなるでしょう。私たちはそのような理解をもって祈ってきたでしょう
か。そうでなかったならば、悔い改めて、思いを新たにして、日々、働き手を送ってくださ
るように熱心に祈ろうではありませんか。
まとめ)
1)イエス・キリストは町々、村々をくまなく巡られた
福音は全世界に行き渡らなければなりません。ですから、私たちは宣教団体のために祈り
ます。また宣教師たちのために祈ります。キリスト教の背景の有ると考えられる国々におい
ても、必ずしも福音が正確に理解されているとは限りません。福音が届くように、祈り仕え
ていきましょう。
2)イエス・キリストは人々を憐れまれた
人間が神の偉大な憐みと同様な憐みを持つことは不可能です。それでも私たちは神の憐み
に倣うことが必要です。私たちの中にはそのような憐みも力も有りません。ですから私たち
は神に私たちの霊の目を開いてくださるように祈り、また、聖霊によって証人としての力を
いただけるように祈るのです。
3)イエス・キリストは神に忠実な働き手を求めている
私たちも働き手として主からいただいた才能や賜物をもって主にお仕えしなければなりま
せん。同時に、イエス・キリストが弟子たちに命じられた祈りの指示忘れてはいけません。
より多くの人がイエス・キリストへの信仰を持つように、もっと多くのクリスチャンが、神
の御業のために整えられるように、熱心に働き手が与えられるように祈り続けましょう。
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