聖書箇所:1列王記15章9節~15節
説教題:アサ王の場合
導入)
アサはダビデから数えてユダ王国の5番目の王でした。11節には彼が「主の目にかなうこと
を行った。」と書いてあります。彼の行いから神の導きを求めていきましょう。
本論)
9節のような表現で年を記録するのが当時のやり方でした。アモス書などでも、誰が王であ
った頃で、大地震の二年前というような記録の仕方をしています。
10節を見ると、アサの統治は41年という比較的長いもので、神の守りと祝福が有ったことが
わかります。彼の母親はアブシャロムの娘でマアカという人であったと記録されていますが、
実際はアブシャロムの孫であり、アサの祖母となる人です。おそらく彼女がアサを育てたので
あろうと思われます。また、親子関係を表す言葉は世代を超えて用いられることがありました。
だから、11節でも「父ダビデのように」という表現が用いられています。ダビデは実際は曽曽
祖父です。
12節からアサの行いが記録されています。当時のユダ王国は周囲の国に影響されて、バアル
やアシュタロテなどの偶像を拝んでいました。また、そういう異教の礼拝にの儀式のために、
神殿男娼がいました。アサ王はそれらを取り除き、追い出しました。
アサ王を育てたマアカは「王母」という肩書や地位が与えられていました。祖父はアブシャ
ロムですから、彼女自身も王家の血筋の出で、栄誉有ることだったと思われます。また、彼は
ソロモンの息子のレハベアムと結婚しましたが、レハベアムのどの妻よりも愛されたことが歴
代誌には記録されています。ですから、彼女は宮廷において影響力が有っただろうと思われま
す。しかし、彼女はアシェラ像を作るような人物でした。それで、アサは彼女をその地位から
退けました。それは難しい選択であったかもしれませんが、彼は神に従う決意が固かったので
す。そして、マアカの作った偶像は切り倒されて、エルサレムの丘とオリーブ山の間にあるキ
デロンの谷川で焼かれました。
14節に出てくる「高き所」とは何でしょうか。それは丘の上などに設置された石造りの祭壇
で、サムエルもしたように、その上で全焼のいけにえが神にささげられました。しかし、偶像
の神のためにも用いられることが有りました。申命記12章13、14節に従えば、ソロモンの神殿
が完成した後には、高き所は取り壊されなければなりませんでしたが、由緒ある祭壇などを残
したのかもしれません。「アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた。」とされています。
15節も主の目にかなうことの記録です。歴代誌の記録によりますと、アサ王は神に頼ってク
シュ人との闘いに勝利し、多くの戦利品を得ました。その感謝と礼拝の気持ちで、金や銀を聖
別して神殿に奉納したと考えられます。
まとめ)
アサ王の行いの記録から、主の目にかなう歩みのポイントを考えてみます。
1)この世とその文化の影響を取り除くこと
ユダ王国の民は異教の国々に取り囲まれ、異教の文化に染まっていまいました。バアルや
アシェラに仕えて繁栄を求めるのが彼らの方法でした。ユダ王国の人々も真の神ではなく、
偶像に頼って繁栄を求めるようになってしまいました。
この世の人々は神によらず、人間的な方法で繁栄を求めます。また、神抜きに生活や人生
を楽しんでいます。それは良い生活になっているかもしれませんが、神の目にかなった歩み
ではありません。そして、最後には霊的な祝福のすべてを失うことになるのです。
アサ王は、偶像を取り除いただけではなく、人々の心を神に引き戻すように呼びかけまし
た。同様に、私たちも互いに励まし合い、また人々を福音に招く歩みを心掛けるのです。
2)身近に有る間違った部分を取り除くこと
王母であったマアカは、アサの人生においても重要な部分を占めていたと思われます。し
かし、神に忠実に歩むことを誓いました。改革は身内にも及ばなければなりませんでした。
私たちはひとりひとり、自分の内側から間違いを正して行かなければなりません。ですから、
習慣的に、立ち止まって自分の内面を省み、自分の思いや反応の背後に有る法則が、聖書的
であるかどうかをよく考え、瞑想することをしなければなりません。そして、間違った法則
や思いを見つけてはそれを悔い改めていかなければなりません。
3)感謝をもって神に仕え、礼拝すること
彼がクシュ人との闘いに勝利をおさめた時、それが神への信仰と神の助けの結果であるこ
とをよく理解していました。自分の能力によって勝利したのではないことがよくわかってい
ました。ですから、その感謝の思いをもって、神殿に銀や金やその他の奉納物をささげたの
です。
私たちは日常生活において、神に感謝の念を表しているでしょうか。日々の祈りの中で、
繰り返し神への感謝の告白をすることです。それが私たちの日々の礼拝です。私たちが成し
遂げたと思うようなことも、そのための知識、能力、健康など、全てが神の恵みです。私た
ちは神の恵みによって生き、ことをなしているのです。ですから、その自覚を持って、アサ
がしたように、受けたものの一部を神に返し、キリストの体なる教会、父なる神の祈りの家
に労力や捧げものをもってお仕えする私たちであるべきなのです。
残念なことに。アサはこの後、北王国イスラエルから妨害にあった時、神ではなくアラムの
王に頼るという偶像礼拝をしてしまいました。神以外の物事に頼るということは、容易に私た
ちの生活に忍び込んでくるのです。そうならないように、私たちは絶えず心を見張り、吟味し
ていなければなりません。
しかし、それでも神はアサ王を、「アサの心は一生涯、主と全く一つになっていた。」と聖
書に書き残させているのです。ここに私たちは神の恵みを見るのです。イエス・キリストの義
を着せていただいたゆえに、たとえ罪の性質から行動してしまうことが有っても、神は私たち
を神の民、神の子、聖徒と呼んで、神の国に入れてくださるのです。ですから、私たちも救わ
れた者として、神の目にかなうことを行うポイントに目を留めて歩んでいくのです。
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