聖書箇所:イザヤ50章1節~11節
説教題:神の助け
導入)
イザヤが活躍した時代の霊的状況は、神との契約を忘れて偶像礼拝に走っているというものでし
た。政治的状況は、アッシリアの圧力にどう対応するか苦心しているところでした。その中でイザ
ヤは人々に神に帰るようにと促し続けていました。50章もその神の警告とイザヤの心構えが示され
ています。
本論)
1)神の助けは罪に身を委ねる者から取り上げられる(1~3節)
イスラエルの民と神との契約が結婚に例えて表現されています。神はイスラエル人を離縁して
はいないと言っています。イスラエルの民に神の加護が与えられないのは神が彼らを捨てたから
ではなく、イスラエルの民が神を離れたからだということです。また、債権者という表現が出て
きます。債権者は負債のある者の子供を売ることができました。エルサレム神殿の備品はアッシ
リヤに奪われてたりしましたが、神が売り飛ばしたのではなく、民の態度が問題だということな
のです。
イスラエルに助けが来ないのは、神に力が無いからではありません。ここで、神はエジプトか
ら民を救い出した時のことを思い出させようとしています。
私たちが神の戒めを守らない時、私たちも神の助けを望むことはできません。忠実に神を愛し
互いに愛し合う所に神の助けも与えられるのです。
2)神の助けは私たちに義と力を与える(4節~9節)
新改訳聖書では平仮名の「わたし」は神を指し、漢字の「私」は人間を指します。ですから、
ここからはイザヤの告白となっていることがわかります。彼は神の言葉を聞き、また従う人物で
した。神は朝ごとに彼に神を離れて困難を覚えている人々に与える戒めや励ましの言葉を示され
ました。人々が彼の預言を拒絶しても忠実に神の言葉を語り続けたのです。6節に表れる行動は
侮辱を表しています。しかし、イザヤはどんなに神の預言者として侮辱されても引き下がること
はありませんでした。どのようにして彼はそういう毅然とした態度を取る力を得たのでしょうか。
それは、7節に示されているように、神の助けが有ったからです。火打石が出てきますが、これ
は硬い石です。彼が侮辱をものともしない態度をあらわしています。彼は神の言葉を伝えるのだ
という固い決意をしたのです。
8節は神がどのような存在か、また、イザヤがいかに神を信頼していたかを示しています。神
は全能であり、至高の存在です。その神が彼を守り、彼を義人と認めてくださるのです。イザヤ
は何者をも恐れる必要がなかったのです。9節で彼は再び神が助けであることを宣言し、強調し
ています。その反対に、神に敵対する者たちは滅びるとも宣言しています。
この箇所にはイエス・キリストの預言が含まれています。十字架にかかる前にイエスが受けた
侮辱と重なります。しかし、イエスは父なる神に委ねられた救いの業を成し遂げることを決意し
ていました。
私たちもイザヤのように私たちを守られる神を信頼していくという固い決意が必要です。神が
私たちの義となってくださることを信じるのです。その確信を持って、人生に起きる何事にも恥
を被ったり当惑しないで歩むのです。
3)神の助けは自己義認に生きる人々には与えられない
10節でイザヤは人々に神に従うように迫っています。それは、私たちに対する、イエス・キリ
ストに従うようにという招きでもあるのです。神への畏敬の念が無い人生は明かりを持たずに闇
を歩くような生き様です。だからイザヤは問題を抱えているユダヤの民に「暗やみの中を歩き、
光を持たない者は、主の御名に信頼し、自分の神に拠り頼め。」と言っているのです。
11節は自己義認に生きる人間の描写です。太陽の明かりのような神の助けに頼るべきなのに、
人間の小さな松明のような自助努力や自己義認で満足していると責めています。その行き着くと
ころは、苦しみ倒れることであり、滅びであると宣言しています。それは、最後の審判の時に決
定的となるのです。
私たちは、人間的なやり方や自己義認の態度は神の前には無意味であることを認識しなければ
なりません。そのような態度は神の前には不快なものです。
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