聖書箇所:詩編139編23節~24節
説教題:神を愛する者の祈り
(要約です。詳細は音声でご確認ください。)
導入)
この詩編はダビデによるということが書いてあります。朗読箇所はこの詩編の結論になります。
この詩編の全体を確認しながら、神を愛する者として、この祈りに倣うべき点を確認しましょう。
本論)
ダビデは繰り返し神に呼ばわっています。彼が呼ばわる神はどのような神なのでしょうか。先ず
神は全知の神であることが述べられています。4節まで読むだけでも4回繰り返して「知る」とい
う動詞が使われています。
神が私たちを知っているその知り方は、単純な知識としてではなく、直接的、個人的且つ体験的
な知り方です。神が私たちをお造りになったからです。(13節~16節参照)ここでは、創造主とし
ての神の認識も表されています。
また、7節から10節の記述には、神が遍在する神であることも表されています。
祈り手であるダビデに目を転じます。彼はどのような存在でしょうか。既にお分かりの通り、ダ
ビデは神の性質をわきまえ知っている人物です。しかし、更に重要なのは、彼が神を愛している者
だということです。神の性質をダビデのように理解する人物でも、必ずしも神を愛しているとは限
りません。むしろ憎んでいる場合も有るかもしれません。
ダビデの神への愛は、19節から22節に述べられています。一読すると、酷く憎しみを促すような
表現に思えるかもしれません。この箇所は、ユダヤ的表現の背景を理解する必要が有ります。新約
聖書のイエスの表現にも反映されていますが、ユダヤ的には、もし人が何かを愛するならば、その
他のものは憎んでいることになるのです。更にこの理解を深めるのが、19節の「悪者」という表現
です。この語には「神を憎む者」という意味が含まれているのです。神を憎む存在がなくなるよう
に祈るとは、すなわち、神に対する愛を告白していることになります。21節、22節で、ダビデは繰
り返して神への愛の告白をしているのです。
この詩編の結論部分に目を向けましょう。ダビデはここでも類義語の反復表現を用いています。
探り、調べ、見るという表現は、それぞれ、調査する、試して証明する、検査・観察するという意
味が有ります。しかし、ここで疑問が沸きます。1節では神は全知だと告白しているのに、どうし
てこのようなことを神に願うのでしょうか。
この祈りと願いは次のように理解できます。それは、神が自分を十分に理解していないという訴
えではなく、自分が自分自身をも十分に理解できない存在であるから、神に自分の問題を教えても
らいたいという願いの表現なのです。人間は自分自身の理解もおぼつかないばかりか、自分の罪や
問題を忘れようとしたりします。だからこそ、神に示していただく必要が有り、そう祈るのです。
傷ついた道という表現における「傷ついた」という語には、「痛み、悲しみ、偶像」という意味
が有ります。神への信頼から離れた部分が有るならば、それが何であれ偶像礼拝となり、神にも自
分にも痛みや傷をもたらすのです。しかし、それを取り去れば、逆に私たちをとこしえの道に導い
てくださるのです。
とこしえの道をもたらすものは何でしょうか。それは、わたしは道であり、真理であり、命であ
ると言われたイエス・キリストです。このイエス・キリストを通して私たちには永遠の命がもたら
されるのです。(ヨハネ3章16節、5章24節参照)
結論)神を愛する者の祈りはどのような祈りでしょうか
1)神の性質を知り告白する祈り
少なくとも、神が創造主であり全知であることをこの詩編は告白し続けています。神は私たち
から遠く離れた存在ではありません。私たちを完璧にご存知であり、理解しておられる神なので
す。この神は、あなたの、また私たちの神なのです。このことを告白して祈りましょう。
2)神への愛と渇望を持った祈り
ダビデは繰り返し神に呼ばわっています。神がどのような方かを告白し、感謝を述べ、強い調
子で神への愛を述べています。このような祈りに私たちは倣うべきです。それで、礼拝次第の中
にも、「崇敬と悔い改めの祈り」が入れられているのです。
3)自分が認識できていない罪の示しを求める祈り
私たちの適用という点では、これが一番重要なものかもしれません。自分では問題も罪も無い
と思っている時でも、日々神に問題点を示していただけるように祈る必要が有ります。それを示
していただいて、取り除いていきたいという強い思いを持つ必要が有ります。神にとって痛みや
傷となり得る事柄を取り除けば取り除く程、私たちは変えられ、霊的に成長していくのです。そ
して、更にとこしえの道の歩みを深めることができるのです。
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