聖書箇所:ルカ5章1節~11節
説教題:弟子道101
導入)
聖書は時系列に沿って物語が記録されていない場合が有ります。直前の4章44節では、イエスが
ガリラヤ地方に留まらないでユダヤ全土を回ったという記述が有りますが、ここでは再びガリラヤ
地方での出来事が記録されています。4章に初めて出てきたシモンとの関わりを回想するような感
じになっています。この部分も奇跡の記録ですが、それは人々のためではなく、弟子となる人たち
に向けてなされたものです。私たちにとってどのような意味が有るかを確認してみたいと思います。
本論)
イエスはいつものように多くの人々に囲まれていました。人が押し寄せて、互いに足を踏んでし
まうような状況であったと思われます。それで、イエスは網を洗っている漁師を見つけて、その船
に乗せてくれるように依頼しました。漁は夜するものでしたから、網を洗うということは、朝であ
り、漁師は仕事を終えたということですから、船を使わせてもらうことが可能な状況でした。少し
だけ漕ぎ出したのは、人がそれ以上押し寄せて来ないようにするためです。
この箇所ではイエスの教えや群衆の反応の記述は有りません。焦点は弟子となる漁師達に有った
からです。ここで、イエスはシモン・ペテロに深みに漕ぎ出すように指示しています。今回は依頼
ではありません。シモンはイエスを「主」と呼んで敬意を表しましたが、続いて漁師としての事実
を述べました。シモンにしてみれば、イエスの指示は的外れでした。大工が漁師に魚の取り方を指
示するのはおかしいでしょう。しかも、彼らは既に夜通し漁をして一匹も獲れなかったのです。更
に、昼間に漁をしなければならない時は、浅い所に網を下すのが常識であったそうです。シモンの
返事が記録されているのは、実際にシモンがそう発言したからというだけでなく、読者にもこの指
示は常識に反することを示し、この出来事が奇跡であることを明確にするためという部分も有るで
しょう。
イエスを失望させないための配慮でもあったのでしょうか、その指示が漁師から見ると見込みが
ないことをシモンは述べます。しかし、その後、イエスの言葉に従うのでした。イエスの言葉に従
った時、彼に対する祝福と報いが来ました。あまりに多くの魚が網にかかったので、仲間の船に応
援を頼まなければなりませんでした。仲間とは、おそらくアンデレ、ヤコブ、ヨハネであると思わ
れます。応援のに来た彼らの船も沈みそうな程の大漁でした。彼らはシモン・ペテロと一緒にこの
奇跡の目撃者となったのです。
この奇跡の持つ意味合いも理解しておく必要が有ります。ユダヤ人には、おびただしい生き物を
呼び寄せることができるのは、真の神の使者であるという理解が有りました。偉大な預言者モーセ
が神の指示によってカエル、ぶよ、イナゴを大量に呼び寄せた記録が旧約聖書に有るからです。こ
の大漁がただの偶然ではないことは明白でした。
イエスが真の神の使者であることを理解したシモンは畏敬の念からひれ伏し、自分から離れてく
ださるようにと言いました。4章に記されている悪霊の反抗的な態度とは好対照になっています。
しかし、イエスは「恐れることはない。」と言ってくださいました。イエスは彼らを滅ぼしに来ら
れたのではなく、新しい使命をお与えになるために来られたのです。この使命を与える直前の大漁
の奇跡には二つの意味が有ったと思われます。一つ目は、神はその命令に従う者を十分に養ってく
ださるということです。二つ目は、彼らは将来大勢の人をイエスに導くということです。
彼らはイエスの召命を受け入れて、何もかも捨ててついて行きました。ガリラヤ地方では、この
湖を資源とする水産業が栄えていました。魚の干物を作って売ることで利益を上げていました。で
すから、そういう収入減を捨てるのは大きな決断でした。しかし、彼らの心は準備ができていたの
です。シモン・ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネは、イエスがバプテスマのヨハネからバプテス
マを受けた直後から、イエスの教えを聞くことになった人たちです。そして、この大漁の奇跡によ
って神様は背中を押してくださったと考えらえます。
まとめ)
1)私たちはイエスを神として受け入れなければなりません
イエスは神であり創造に携わった方です。ですから、生き物の動きを御する権威が有ります。
そして、人々を神の業のために任命して遣わす権威が有ります。ルカはイエスに神の権威が有る
ことを示すために、4章から6章にかけてそういう説明になるエピソードを書いています。
2)私たちはイエスに従う者の態度を心得なければなりません
その朝も、イエスの周りにはその話を聞きたい人が大勢集まっていました。しかし、イエスは
彼らの中からは弟子を選ばないで、ペテロをはじめとする四人を選びました。彼らが持っていた
弟子の資質は何でしょうか。第一に、ペテロはイエスのために進んで働く気持ちが有りました。
第二に、ペテロは自分の考えよりもイエスの指示を優先しました。第三に、ペテロはイエスを自
分の主であり神であると認識していました。第四に、ペテロは全てを捨ててイエスに従って行く
気持ちが有りました。他の三人も同様であったと考えることができるでしょう。
私たちも、このような弟子の資質を備えてた者として歩んで行く心構えを持つべき弟子です。101
という番号は、大学の科目の1年目の科目につけられたりする番号です。その学問の初歩というこ
とになります。ペテロ達が示した弟子の資質を、私たちの持つべき心構えの初歩と考えて、今日の
イエスの弟子である私たちの心構えとして歩みましょう。
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