聖書箇所:ヨハネによる福音書5章1節~18節

研究ノート
1節 ユダヤ人の祭りがどれであるかは不明。過ぎ越しの祭りなら春、仮庵の祭りなら秋。
   問題は、どの祭りであるかではなく、それが安息日に起きたことである。(9節)
2節 羊の門は神殿に近い門で、犠牲の羊を念頭に入れた名と思われる。
5節 38年は病気の期間であって、ベテスダの池の回廊に滞在した年数ではない。
6節 キリストが「よくなりたいか。」と言われた理由は
   1)男の注意をご自身に向けさせる 
   2)本人の告白を導く
   3)癒しの保障(そう尋ねて何も起こらなければ意味がないと思われるため)
   などが考えられる。
9節 すぐに直ったことが、神の奇跡の力によることを表している。
10節 ユダヤ人たちとは、具体的には律法学者やパリサイ人などである。
11節 神の力によるとしか考えられない癒しを経験したので、男はキリストの権威が神か
   ら来ることを認め、従おうとしていたと思われる。
12節 ユダヤ人指導者たちは、キリストの驚くべき癒しの御業を神に拠ると考える心構え
   は無かった。
13節 癒された男性は世事に疎く、キリストの噂も耳にしたことが無かったのだろう。
   キリストが速やかに立ち去ったのは、まだ伝道の初期であったので、できるだけユ
   ダヤ人指導者との衝突を避けようとしてのことかもしれない。
14節 ここでは、男は宮に居た。癒されたことに感謝する犠牲を捧げ、礼拝するためであ
   ったかもしれない。
   キリストの言葉から、男の病が罪に起因していたと考えるのは自然である。
15節 男はあまり深く考えず、ただ正直にユダヤ人指導者に報告をしたように思われる。
16節 ユダヤ人指導者は、冷静に神の権威と自分達の伝統の優先順位を考えてみるという
   ことができなかった様子である。癒しは確実に神の権威によるものであるが、それ
   よりも、伝統が定めた安息日の規定を守ることにしか目が向かなかった。
17節 働いていると訳された動詞は継続を表す時制になっている。
18節 ヨハネによる福音書においては、この節が初めてユダヤ人指導者たちとの対立を記
   している。
   「わたしの父」という表現が、「自分を神と等しくする」と理解されたことが判る
   キリストは自分の神性を言い表さなかったとする立場は、このようなユダヤ的理解
   を無視していることになる。

ごく簡単なまとめ
1)キリストは癒しの力を持つ神である。
2)この男性のように、人間の霊性も限界が有り、キリストの助け無に救われない。
3)我々が罪に留まらないことがキリストの御心である。
4)キリストはユダヤ的文脈の中で、明確にご自身の神性を示された。