聖書箇所:ヨハネによる福音書4章27節~42節
研究ノート

・通常ラビは女性と話さなかったうえに、相手がサマリヤ人であればなおさらであった。
・ヨハネは女が水がめを置いて行ったことまで記録している。女が戻ってくることを明確
 にしたかったのかもしれない。
・女は社会的には疎まれていたであろうから、その言い方は控えめであったが、その素性
 を言い当てた人がいて、メシアかもしれないとなれば興味がわくのが当然であった。
・31~38節は、直後に弟子がしなければならない働きに向けての予告的内容といえる。
・神の御心を行うことがイエスの満足、また原動力となる。食事をしなくて良いというこ
 とではない。
・35節は当時の慣用句であろう。麦は10月から11月にかけて蒔かれ、その後収穫まではお
 よそ4か月待つ必要が有った。辛抱して待つという意味合いが有ったであろう。
・刈り入れるばかりになっている、というのは、間もなく彼らのところに来るサマリヤ人
 たちの霊性について述べたことになる。
・蒔く者とは、スカルに近いアイノンで神の国と悔い改めを宣教したバプテスマのヨハネ
 とその弟子たちであるかもしれない。彼らはイエスついても証をしていた。
・サマリヤ人の求めに応じてイエスがその町に二日間滞在したが、それは普通のことでは
 なかった。ユダヤ人はサマリヤ人を異邦人として嫌っていたので、寝食を共にすること
 はなかった。サマリヤ人はモーセ五書に従って生活していたので、食物の穢れの問題は
 無かった。
・「信じた」ということが繰り返し用いられている。その内容は、42節に述べられている
 ように、イエスが本当に世の救い主だということである。ユダヤ人だけの救い主ではな
 く、「世」の救い主であるという信仰に至っている。

ごく簡単なまとめ
・イエス・キリストは世の救い主である。
・本格的にガリラヤ宣教が始まる前から、イエスは異邦人にも救いの道を示し始めておら
 れ、また、全世界の主であることを既に示しておられた。後世に弟子たちが発展させた
 メシア像という考え方は、聖書の記述と相容れない。