世田谷城址公園より、世田谷区役所・国士舘大学へあしあと

学生や生徒で賑わう通りを進むとうずまき

松陰神社神社の前に

 

松陰神社神社は、世田谷区若林にある神社神社

創建は、明治15年(1882年)に長州藩士吉田松陰の旧藩士門弟らが中心となり

松陰の墓のあったこの地(旧毛利藩主の抱屋敷)に堂を建てたのが始まりとされキラキラ

昭和初めに社殿は大修理され、府社となりましたうずまき

 

開運招福の絵馬カメラ

 

参道途中に、吉田松陰ブロンズ像カメラ

明治新政府樹立に活躍した中心人物を数多く育てた幕末の思想家
吉田松陰は通称寅次郎は長州藩士杉百合之助の2男として

天保1年(1830年)萩城下松本村に生まれ

幼にして叔父吉田大助の養子となり吉田の姓を名乗ったが

養父死亡後は生家の援助で成人しましたうずまき

 

松陰は、幼時より俊敏気鋭キラキラとされ

11才にして藩校明倫館の師範となり、藩侯の御前講義をおこなったという

また、15・6才頃「世界地図」・「神輿図式」などを得て

世界的な視野が開け、日本の地理的な環境を頭に描き

その思想を豊かにしていき20才以後は各地を旅行し

いわゆる天下の志士や知名の学者と交遊し

その志士的活動に突入していったそうですびっくり

 

なかでも佐久間象山の影響は著しく

松陰の一生の思想と行動に決定的な方向を与えたといわれていますキラキラ

 

 

 

安政1年(1854年)ペリー来航時の密航に失敗した後

安政3年(1856年)7月から安政5年(1858)12月まで

と僅かな期間ですが、松下村塾において子弟の教育に当たったうずまき

この間、彼の人格的・思想的影響は年少の門弟に大きな感化を与え

明治維新の原動力となることになりますキラキラ

 

しかし安政の大獄は、松陰のような影響力の大きな人材

(幕府にとって危険人物!?)は見逃がされるはずはなくガーン

安政6年(1859年)10月27日に伝馬町の獄舎で打首ナイフとなる

そして、文久3年(1863年)正月に松陰の遺体は門弟高杉晋作などによって

頼三樹三郎、来原良蔵などと共に、現在地に移葬されたそうですお願い

 

 

地元の有志の方でしょうか?

ちょうど花手水の入れ替えが出来たようですキラキラ

 

GW直前の境内には鯉のぼり口笛

 

拝殿前の参拝前・・・アセアセ境内の片隅に

吉田松陰の像と昭和17年(1947年)に再現された松下村塾のレプリカ!

萩市の松陰神社の境内に幕末当時の塾舎が現存するそうですびっくり

高校生の時、修学旅行で見学したような!?

 

 

ご祀神は、    吉田寅次郎藤原矩方命(吉田松陰)

ご住所は、    世田谷区若林4-35-1

 

参拝お願い

 

参拝後、授与所にて直書きの御朱印いただきましたお願い

 

社務所脇から続く道の奥あしあと

松陰先生他烈士墓所キラキラ

吉田松陰の墓碑をはじめとして、頼三樹三郎、来原良蔵らの墓がありますお願い

 

禁門の変の後、長州征伐の際、幕府によって一度破壊されたガーン

松陰の墓は明治1年(1868年)に木戸孝允らが修復キラキラ

その際、葵紋のついた石燈籠と域内の水盤が

徳川家よりから謝罪の意を込め奉納されたそうですびっくり

 

また、同じ世田谷の谷を挟んだ近くには豪徳寺もあり

豪徳寺は吉田を刑死させ安政の大獄を起こした

井伊直弼の菩提寺(お墓)があるのも、不思議な縁ですね口笛