追分公園、浅間神社神社にやってきた車

昔は神社前の用水脇に小さな駐車場でしたが!?

いつの間にか道路反対側に大きな駐車場が出来ていましたびっくり

追分宿散策には便利そうだグッ

 

御影用水の橋を渡り境内へ

傘雨にうたれる古びた石灯篭

寄進された!?油屋と刻んであります

 

その奥に見えた目のが

松尾芭蕉の句碑キラキラ

 

帰支飛寿石裳浅間能野分哉
ふきとばす 石も浅間の 野分かな


浅間おろしと土地の人々が呼ぶ野分が吹きはじめた頃、

芭蕉は信濃(長野県)に旅をしました足

更科紀行に描かれる旅の終わりに、この碑の句を詠んだそうです。

 

更科紀行は、貞享5年(1688年)8月に芭蕉が

門人越智越人(お ちえつじん)を伴い

美濃から更科にて名月満月を楽しんだ後、善光寺に詣でお願い

浅間山麓を抜けて同月下旬には江戸に帰ったそうです。

 

碑がたてられたのは寛政5年(1793年)芭蕉の百年忌に因み、

佐久の春秋庵連(自身の筆)により境内に建てられ、

碑の建立とともに百韻巻き「暴風の巻」も編まれたそうです。

 

 

浅間神社神社は浅間大明神遥拝の里宮で

 

大山祇神 おおやまつみ

磐長姫神 いわながひめ

が祀られています。

 

本殿は室町時代のもので、

軽井沢町内の木造建築としては最古のものにあたるそうです。

現在は、鞘堂に覆われ保護されています。
 

明治2年(1869年)浅間山鳴動の際に浅間山の鳴動が特に激しく、

沈静祈願のため明治天皇の勅祭が行われたそうです。

 

子供頃は、今ほど手入れもされておらず境内は草むら

父とトンボ取りにいそしんだ思い出

 

少年時代!!

 

その頃の感謝も込めて

参拝、参拝お願い

 

追分節発祥の地の碑キラキラ

江戸初期 軽井沢は関東・信濃・北陸方面を結ぶ玄関口として重要視され、

中山道改修により 東海道と共に江戸と京都を結ぶ重要幹線とされました。
軽井沢・沓掛・追分の浅間三宿が設けられ、参勤交代制度と共に繁栄をきわめました。

中でも、 追分宿は中山道と北国街道の分岐点として栄えました。

 

浅間三宿は関東・上州方面への物資や旅客輸送の為、 

中馬や馬子衆の一大集結となりました。

必然的に労働歌的馬子唄が生まれる素地があったそうです。

 「碓氷峠の権現様は わしがためには 守り神」音符

浅間山の自然や碓氷峠の熊野権現を、 

馬子たちは自分の守り神として畏敬の念を持って歌っていました。

その馬子唄に、語を替えたり新作歌詞や囃子詞も付け

「追分節」が完成されました。

一部はその主流となって諸国に広く伝承伝播され、 

特に関東以北では発展していったとされています。