墨田区役所の勝海舟像から北へランニング

北十間川に架かる枕橋よりカメラ

東京スカイツリー東京ミズマチ下矢印

東京ミズマチ (tokyo-mizumachi.jp)

 

観光案内で見慣れた風景

スカイツリーラインのガード下を横切り、隅田公園へ足

区役所は「墨田」、川や公園は「隅田」ハッ

ややこしや~もやもや

 

昭和22年(1947年)3月に「向島区」と「本所区」が合併キラキラ

新しい「区」が誕生した当時、当用漢字表に「隅」の字がなかったアセアセ

ことを理由に「隅田区」は採用されず

「墨田区」となったそうですびっくり

(その後、「隅」は1981年の常用漢字表で採用されてました)

 

 

隅田公園の中程にある

明治天皇行幸の石碑カメラ

 

公園もともとは、水戸藩徳川家下屋敷だったそうです。

関東大震災後で屋敷が全壊アセアセするまで、代々ここに住んでいたそうですびっくり

 

震災からの公園として復興する際に、

水戸藩下屋敷の大名庭園の池や遺構は、

隅田公園の日本庭園の一部に取り込まれたそうですうずまき

 

二峰先生の碑カメラ

二峯先生とは、幕末から明治時代初期にかけて活躍した

書家の高林二峯のことだそうですびっくり

 

堀辰雄ゆかりの地」案内板カメラ

 

明治39年(1906年)、「風立ちぬ」等の名作で知られる堀辰雄は、

母とともに向島に移り住みましたトラック

翌年、母が向島須崎町に嫁いでから、

明治43年夏の大洪水で被害を受けるまで暮らしましたうずまき

 

その後は、地元の牛島小学校から、

芥川龍之介も学んだ府立第三中学校(両国高等学校)に入学、

そして第一高等学校に進みました学校

 

辰雄は関東大震災で九死に一生を得ますが、母を亡くしました。

大正13年(1924)に、向島新小梅町(現、隅田公園隣)に

引っ越してきたそうですトラック

 

辰雄が結婚して軽井沢へ赴く、昭和13年(1938)までそこで暮らしていたそうです。

人生の過半を向島で過ごした辰雄は

 

「墓畔の家」や「幼年時代」などの作品に、

当時の墨堤や近隣の寺社の様子を鉛筆

記しているそうですびっくり