北上野へ抜ける
跨線橋
山手線外回り電車が通過![]()
寛永寺輪王殿前にある、寛永寺旧本坊表門![]()
輪王殿脇、一方通行を忍岡中方面へ進む![]()
この道歩くの、実は初めて![]()
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「一般社団法人 鳩レース協会」![]()
がありました。
「鳩レース」とは、
「複数の愛鳩家が各自の飼育している鳩を持ち寄って、
同一地点から同時に放鳩し、誰の鳩が速く帰ってくるか競うもの」
だそうです
(鳩レース協会HPより)
一般社団法人 日本鳩レース協会 JAPAN RACING PIGEON ASSOCIATION (jrpa.or.jp)
鳩といえば、会社に入ったばかりの頃
独身寮隣に鳩舎があって
会社休みの日も、鳴き声で早く起こされた記憶・・・![]()
協会の隣は、寛永寺子寺現龍院が管理する墓地![]()
「殉死者の墓」
慶安4年(1651年)、三代将軍徳川家光が死去。
その後を追って家光の家臣5名が殉死、
さらにその家臣や家族が
殉死しました
。
ここには家光の家臣4名と、その家臣8名の墓があるそうです。
・堀田正盛(元老中、下総国佐倉藩主)
・阿部重次(老中、武蔵国岩槻藩主)
家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。
・内田正信(小姓組番頭・御側出頭、下野国鹿沼藩主)
家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。
・三枝守恵(元書院番頭)
家臣の秋葉又右衛門。
殉死とは、主君の死を追って家臣や家族らが
自殺することで、
武士の世界では、戦死した主君に殉じ切腹するという追腹の風習があったそうです![]()
江戸時代になってもこの風習は残り、
将軍や藩主に対する殉死者が増加、その是非が論議されるようになりました。
家光への殉死から12年後、寛文3年(1663年)に幕府は殉死を禁止
。
その後、この風習はほぼ絶えたそうです![]()
忍岡中の横も抜け![]()
山手線内、ひっそり営業駅の1位2位を争う![]()
鶯谷駅へやってきました。
鶯谷駅前、
オトナな路地を進み
「元三島神社」へ![]()
元三島神社は、
2度目の蒙古襲来があった弘安の役のときに、
河野通有が伊予国大三島神社に必勝祈願した後、
当地に分霊を勧請して創建したと伝えられます。
ささやかな手水舎ですが、
花手水![]()
綺麗な花に心が和みます![]()
下谷七福神の寿老人も祀られています![]()
賽銭箱の向こうに行くのは、憚れるので・・・この場で
参拝、参拝![]()













