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DO IT YOURSELF Vol.1 “秘密基地”

小学3年になる頃、埼玉から親の実家がある青森に引っ越した。


おじいちゃん子だった私は、引っ越す前から夏休みの期間などを祖父

の家で過ごしていたこともあり、祖父の家の周りには、友達も沢山いた。

祖父の近くに行けることと、青森の友達とまた遊べることで、うれしかった。

埼玉の友達と別れる寂しさとかは、あまり記憶にない・・・。

それより青森に行けばカブト虫がいっぱい捕れることの方が、子供の私

にとっては重要だったような気がする・・・。


引っ越してしばらくした頃、仲良しで同級生の“むね”が『秘密基地をつくって

るから、一緒に行こう。』と、誘いに来てくれた。

『ただし、女子には絶対見つからないように・・・。』

その言葉に、ワクワクし、同時に(自分の姉も含む)女子に見つからないよう

緊張しながら“むね”について行った。

向かった先は、農道のつきあたり、背丈ほどもある草むらをかき分けて入る

森の中だった。と、そこには、4,5人の近所(村)の男の子たちが、ノコギリや

カナヅチを手に木の上に基地を建設中だった!!


埼玉に住んでいる時にも、“秘密基地”はつくっていたが、それは、家と家の間に

ダンボールで囲いをつくったり、資材置き場の資材のかげを“秘密基地”と呼んで

いただけの、秘密にもなっていないバレバレの遊び場だった。

衝撃的な光景!!

都会っ子(青森に比べ・・・)の私の想像をはるかに超えた“夢のお城”。

造り的には、太めの枝と枝の間に板を渡し、子供二人くらいが座れるスペース

を、木の下段、中段、上段に作ったもので、ツリーハウスのような上等なもので

は無かったが子供の私にとっては充分衝撃だった・・・。

下段のスペースまでは、手づくりのハシゴが掛けられていて、そこから上は、木

を登るという感じだった。

子供たちはみんな慣れた手つきで、上級生の指示に従い黙々と作業に集中して

いた。

大人になって思うが、田舎(農村部)の大人たちは、自分で出来ることは、自分で

やるという事が普通になっていて、そういう大人を見て、手伝って育つ子供たちの

中では、ものをつくるという事がごく当たり前のことになっていたのだと思う。

ちなみに、私の祖父の家は、祖父が建てた。家の修繕、増改築はもちろん、

自動車、農耕機具の修理、など全て自分でやっていた。今でも、私にとって祖父

は、万能のスーパーマンだ・・・。


さっそく私も作業に加わった。

最初の作業は、木の枝に掛けられたロープの端に、資材を括り滑車の要領で

ロープを引き、上段へ資材を送ることだった。

みんなが、自分の家から、工具や端材を持ち寄っていた。

ただ、足りない釘や材木は“むね”が提供していた。

当時“むね”のおとうさんは、“若い衆”を何人も抱える大工の親方で、家には大きな

作業所を持っていた。そこからこっそり釘や材木を拝借し、“秘密基地”に運んだ。

ついでに、二人で作業所にあった腰袋も拝借してそれを着け、他の子たちに差を

つけた。本物の大工さんのように口いっぱいに釘を入れてみたりもした・・・。

いっぱしの大工になった気がした・・・。


私が“秘密基地”づくりに加わった日、上段の“見張り台”が完成し、一度だけ登ら

せてもらった。農道からはまず見えないが、木の葉の間からは農道がよく見え、

まさに“見張り台”となっていた。

なぜ一度だけなのかというと、そこは高学年の場所だったのと、当時の私には、

なんとか登ることは出来ても、下りる事が難しい枝ぶりで一度で十分満足した。

3年の私と“むね”には、中段のスペースが割り当てられた。

大人や女子たちには知られず自分たちだけの場所(今思うとその森は誰かの土地

だったのだろう・・・。)を持ったという、嬉しさと満足感があり、いろんな空想をみんな

がしていたのだろうと思う。


それから何回かこっそり“秘密基地”に集まった。

具体的に何をしていたのかは、もう記憶が定かではないが、だれにも気付かれない

ように“秘密基地”に向かう時のドキドキ感はなんとなく憶えている。


ある日“秘密基地”で遊んでいると、遅れて“むね”がやって来た。

“秘密基地”メンバーは、それで全員のはずだったが、すぐに草むらを掻き分ける

がした。

“秘密基地”メンバーは話すのを止め一斉に身構えた・・・。

そこに現れたのは、“むね”の姉を筆頭に、私の姉も含む数名の近所(村)の女子

たちだった。

『尾けられていた・・・』

腕組みをし、私達に向かい、

『あんたたち!!隠れてこそこそ木の上にそんな物作って、危ないじゃない!!』

“秘密基地”の周りがサーっと静かになった・・・。

その後女子たちとはどうなったのかは憶えていない。

ただ、夏休みに入る前の学校からの注意事項に

“木の上に基地を作ってはいけません”

という事が加えられていた・・・。


今思うと、女子は危ない云々よりも自分たちが仲間に入っていなかった事に腹を立て

ていたのだと思う。(多分)

そして、私達子供がこそこそ集まっていた事を、大人は知っていたはずだ・・・。

勝手に“むね”のおとうさんの仕事道具を持ち出した事についてはこっぴどく怒られた

が、基地を作ったことに関して怒られた記憶は無い。


女子に見つかって以来、先頭に立っていた高学年の人達は基地づくりを

しなくなった。一緒に遊ぶ事も少なくなっていった。

私達より“おとな”になっていったからだと思う。

小学生の1、2年の差は大きい。


そして彼らに代わり、近所(村)の遊びの中心は、私と“むね”になった。

私は、町の学校に転校したが週末、祝日、夏・冬・春休みの全てを祖父の

家で過した。木の上ではなかったが、“秘密基地”を作りまくった。

(多分、誰かが所有していた山の中に)

作った基地に通い、飽きるとまた次という感じで・・・。

相変わらず工具類や端材は、“むね”のおとうさんの作業所から拝借していたが、

材料としては、木の枝や、葉なども多用していた。

私達の作っていた“秘密基地”には、壁や屋根もついていて、ちょっとした小屋

だった。

名前も付いていた、“大岩”とか“4本杉”とか、そうやっておくと話をしていても

“秘密基地”とはバレない。


“秘密基地”のメンバーは、私と“むね”の他、

同級生で、川・ため池遊びの達人“カズヤ”。海パンで川に入り1メートル近くもある

ナマズを素手で捕まえた事もあった。

そして、一つ下の“コンジ”。私が小4の時彼とリンゴ畑で、初めてバイクに乗った。

もう一人、二つ下ではあったが歳の差を感じさせなかった、“ミツグ”。驚異の身体

能力の持ち主で、かけっこ、木登り、すもう等々体をつかった事はずば抜けていた。

私の知る限り、2回車にはねられているが、翌日には一緒に遊んでいた。


彼らと“秘密基地”に行き、いろんな遊びをし、いろんなことを話した。話の題材に

深刻なものは無く、カブト虫の捕れる新スポットや魚釣り、アケビ採り、アントニオ猪

木、貴乃花・・・。それと絶対に忘れられないのが、近所(村)に住む、“悪い事をする

と食べられる”と言われ、子供たちから恐れられていた婆さんの話・・・。

“秘密基地”では、なぜかみんな話しが大きくなっていた。そしてその話の全てが想

像力溢れていた。

“秘密基地”以外で遊ぶ時は、喧嘩をすることもあったのだが、不思議と“秘密基地”

では、いつも以上に仲がよく喧嘩をしたことが一度も無い。多分、自分たちだけの

秘密を共有す“秘密基地”では、お互いが相手を大切にする気持ちを無意識に

持っていたのだと思う。


私は町の学校に転校した頃に、ラジオの深夜放送を聞く事を知り、洋楽などにも

興味を持ち始めていくのだが、当時の私と彼らとの間で、音楽の話題になったこと

はない。当時、村での刺激的な遊びを知ってしまった私にとって、町の子供たちが

熱中していた野球などには興味が持てなかった。町での生活で自然に、映画や

音楽にのめり込んでいっただが、彼らと居るときは、町での映画や音楽は必要

なかった。いかに面白い遊びをするかという事に熱中したし、熱中できた。


中学が近くなった頃から、私・むね・カズヤそれぞれが家庭の事情や中学での新し

友達が出来た事で自然と遊ぶ事がなくなっていった・・・。


とにかく、小3からの4年間“秘密基地”をはじめとして、私達は、いろいろなオリジナ

遊びや、道具をいくつも作り出した。どれも、今では(当時も!)、大問題になって

しまうようなものばかりだが、私は、それらからいろんなことを学んだ。

(瓶割り、リンゴ合戦、ビタ撃ち、釘ナイフなどなど・・・。)



何だか、“秘密基地”から私の子供時代の思い出になってしまっていますが、全てが

“DO IT YOURSELF”だったと思うのです。私達の遊びは、大人に怒られたことも

多々ありましたが、少なくとも、大人の都合に合わせてお膳立てされた遊びでは無

かった。

この4年間は、私の人生の中で、なにものにも変えがたい時期であり、今の私の

仕事原点になっています。

(この4年間のいろいろなエピソードはまた何かの機会に!!)


想像するところから“DO IT YOURSELF”は、始まります。

私が子供の頃作った、秘密基地や遊びなどは、私や仲間の誰かが想像したことから

“かたち”になりました。想像することが出来れば、どうすれば良いかが見え、解決さ

れることが沢山あると思います。



今の子供たちには、“秘密基地”があるのだろか?

“秘密基地”という空間があるということを知っているだろうか?

“童心を忘れない大人の秘密基地”的なものとはまったく違う、子供の時、その時に

しか味わう事の出来ない感覚、子供だけの世界が“秘密基地”にはあった・・・。


現在は、私の子供の頃とは大分世の中が変わってしまいました。

ただ私と同世代位の方たちの多くが、“秘密基地”をつくった経験があると思います。

思い出してみてください、そこには、無限の想像があったはずです。

いろいろ制限の多くなってしまった現在ですが、

“子供の基地づくり”に興味のある方は、お気軽にHLC STYLEに

お問い合わせ下さい。


次回、“DO IT YOURSELF Vol.2”お楽しみに!!


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Portable Box

私達の生活に欠かせないコーヒー。

出かける時は、いつもポットに入れて行きます。

そんなポットとカップを入れるBOXを作りました。



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外で飲むコーヒーは、またおいしい。


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次はこれを持ってどこへ行こう・・・。



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パラソル

暑いですねー。


T-シャツでいけそうですねー。


本日、HLC STYLEでは、今年初の

パラソルをセッティングしました。


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ゴールデンウィーク明けをめどに、

ウィンタールームの撤去後、新たに

夏仕様のスペース製作を計画中です。


おたのしみに!!

Thank You Malcolm !

今日の朝、仕事に向かう車のラジオでSEX PISTOLS

の元マネージャーのマルコム・マクラーレンが亡くなった

というニュースを聞きました。


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マルコム・マクラーレン、マネージャーなのにバンドと同じ

くらい有名なひと。


SEX PISTOLSを結成させ、パンクムーブメントを世界中に

広めた仕掛け人。


SEX PISTOLSがいなければ、自分の一番好きなバンド

THE CLASHも、もしかしたら、いなかったのかもしれない・・・。

そして、それに続いたニュウウェイブと呼ばれた音楽ブムーブ

メントも、違ったかたちだったかもしれない・・・。


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追っかけていた人ではなかったのですが、たしか、80年代に

入ってアダム・アンド・ジ・アンツ(?)やバウ・ワウ・ワウのマネー

ジャーもしていたと思う。本人もアルバムを出し、早くから

HIP-HOPを取り入れた音づくりをしていた。


マルコムについて、あまり良く言うひとに出会ったことがない・・・。

でも、確実に、彼が世に送り出した音楽やファッションに影響を受

けた人達が世界中に沢山いた。

自分もその中の一人だったかもしれない・・・。


仕事帰りの車のなかで“ANARCHY IN THE U.K”を激唱した。

Thank You Malcolm ! !



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晴れ!!

このところ不安定な天気が続いていますが、

今日は、晴れ!!

ちょっと風が冷たい気もしますが、日当たりのいい

HLC STYLEのデッキスペースはポカポカです。



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日もだいぶ長くなり、キャンドルを灯すのもそろそろ

終わりかなー・・・。




HLC STYLE


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