あの日が来るまでは、

私は何の危機感を感じることもなく、

ぽけーっと、ものすごくおめでたく生きていたんだと思う。

 

しかし、あの日を境に、自分の中で何かが急変した。

今まで平和ボケしていた私は、

あの日、不意打ちで高圧電気ショックを受けて

思考回路の配線が全く変わってしまったかのように、

別人になってしまったのかと自分でも疑うぐらい、

気がおかしくなった。

 

あの日までは、

メディアの報道することを、

ふーん、そっか。

と、何の疑いを抱くことなく、

いつもすっと受け取って、

私は、おめでたく毎日を過ごしていたように思う。

メディアの報道することは全て真実。

そんな誤解をしていた。

そんなふうにすっかり洗脳されてしまって、

「疑う」ということすら思いつかなかったんだと思う。

 

どこのテレビ局も一斉に「自殺」と速報したあの日、

メディアの言うことは事実であり

メディアの言うことは信じないといけない。

そんな固定概念に依然として捕らわれながら、

メディアが報じたことを自分に言い聞かせ、

私は、気持ちを落ち着かせることに、ただただ必死だった。

 

しかし、今回に限っては、

メディアの情報 v.s. それを信じたくない自分

その2つの間で、ずっと葛藤していた。

それは、いつもとはちょっと違う感覚だった。

 

親族に非があるというような報道。

過労による自殺というような報道。

(過労であるなら事務所に非があるのに、

そこは都合により取り上げない。という矛盾、、、)

各メディアは、信憑性の乏しい、根拠のない理由を適当に並べた。

かの事務所は、人間の心の温かさを全く感じられない、

冷静で彼やファンに対する敬意を欠いたコメントを発表した。

うんざりさせられた。

 

そう。

メディアの報道には、実は何の根拠もないものばかり。

〇〇だから(根拠)、〇〇だ(断定)。

ではなく。

〇〇だ(根拠のない断定)。

しか伝えていないということに気が付いた。

つまり、

根拠があり断定しているのではなく、

根拠がないのに断定し、人々に信じ込ませ、洗脳している。

 

遺書はないのに自殺。

〇〇だから。という根拠のない断定。

彼がまじめすぎたから?

完璧主義すぎたから?

〇〇だから。と言っているように見せかけて、

そこはぜーんぶ憶測であり、偏った価値観であり、

実は、全く根拠のない「根拠に見せかけた憶測や偏った価値観」

によって、人々に信じ込ませて、洗脳している。

 

GHQが日本を支配下に置いていた時、

GHQが日本のメディアの検閲を行っていたように、
あの日の速報も、日本のマスコミを支配する反日家たちによって

検閲、口裏合わせがあったのではないか。

 

あの日を境に、私はメディアの洗脳から解かれた。

あの日を境に、私はあることを学んだ。

それは、メディアを信じ込むことは、実はものすごく危険だということ。

 

「疑う」というアイデアすらなく、

ただただ鵜呑みにしていたマスコミの報道の中には、

たくさんの洗脳があったことに気が付いた。

そして、さらに恐ろしいことは、

マスコミの報道を「疑う」ということすら人々が忘れてしまうほど、

マスコミは人々を洗脳している。ということ。

 

道徳的の善悪に基づいた意見は、洗脳とまでは言わないだろう。

例えば、

交通事故で亡くなった有名人に遺憾の意を示す。

犯罪は悪いことだ。

飲酒運転は悪いことだ。

こういったものは、洗脳とまでは言わない。

つまり、

事実に基づいた根拠。

法律に基づいた根拠。

万人がそうだよね、と必ず納得する根拠。

そういう根拠の上にある、一般的な意見だから。

 

しかし価値観によるもの。

例えば、

日本は悪い国だ。

古いものはダメで、新しいものほどいい。

チャリティー活動はするべきだ。

自殺だと信じるべきだ。

他殺だと思うことは悪いことだ。

陰謀論を信じる人は悪い人だ。

こういうことを鵜呑みしてしまうことは、実は危険かもしれない。

そこには、根拠が存在しないから。

 

他の国だって戦争したことあるし、殺戮していた過去があるよね。

古いものでも素晴らしいものはたくさんあるよね。

寄付金が正当に使われていると信じてしまうのは危険だよね。

事実に基づいた根拠は存在しないのに、

反日マスコミの勝手な価値観を、まるで事実であるかのように正当化し、

まるでそれが事実に基づいた根拠であるかのような言い回しをして人々を信じ込ませ、

ほんとは根拠なんて存在しないのに、勝手に断定して報道をしているよね。

根拠がないわけだから、捏造の可能性だって否定できないよね。

反日マスコミにとって都合のいい報道をしているよね。

 

価値観というのは、人によって違う。

しかし、マスコミは、マスコミの都合によって偏った価値観で報道する。

がんじがらめに固定された価値観を報道され続けた結果、

人々は、その価値観が「常識」であり「固定概念」である、

というふうに勘違いしてしまい、無意識の間に洗脳されている。

そして、ほとんどの人は、何の疑いもなく、

マスコミの伝えた価値観が「常識」だと信じ込み、

それを疑ってみる、という考えは全く思いつかない。

仮に、それ以外の考え方をする人々が時々いたりすると、

マスコミは、その人たちを頭ごなし否定し封じ込み作戦に出る。

それ以外の価値観を持つことは「悪」であるというふうに叩き込む。

これが、マスコミによる洗脳の全貌。

 

洗脳は、人々の「常識」に入り込み、

「常識」だから「絶対」なんだ、というふうに人々の考え方を固定してしまう。

人々は「常識」だと思い込んだら、疑わなくなる。

洗脳が人々の常識に入り込むことにより、

固定概念化し、もう二度とその考えから抜け出せなくなる。

それって、実はものすごく怖いことじゃない?

 

一斉に「自殺」と速報したマスコミを信じ込み、

そこには実は何の根拠もないのに、

マスコミが言ってるんだから正しいに決まってる。

と思い込んでいる人々は日本中にたくさんいると思う。

私は、なんていうか、何としてでも彼らを説得しよう!とまでは思わない。

彼らがそれを信じ込んで、あの日のことを消化できていて、

彼の死を納得できているのなら、

彼らが世の中を何一つ疑うことなく、

平和に幸せに満足に生きているなら、

それを壊したいとは思わないから、それでいいと思う。

私は、無理に彼らの気持ちを揺さぶって、ムードを壊そうとも思わないし、

私が他殺だと思う根拠を並べて、一生懸命説得しようとまでは思わないし、

そんなことをして彼らを不幸な気持ちにしたいとは思わない。

メディアのおかげで、何も疑うことなく日本は悪い国だと信じ、

戦争のない平和でおめでたい生活ができていることも、

まぁ、確かではあるかもしれないからね。

 

ただ、メディアの言うことを全て鵜呑みにすること。

メディアの報道を全く疑わない、というのは、

ものすごく危険であるかもしれないよ。

ということだけは心から伝えたい。

 

マスコミの言うことを信じて疑わなくなっている人々は、

反日マスコミの思うつぼ、

反日マスコミに完全に洗脳され、

反日マスコミの陰謀に貢献しているかもしれないよ。

 

一斉に「自殺」と速報したあの日、

「自殺」という文言だけは、口裏合わせがあったかのように

各メディア揃って、全くブレていない。

しかし、根拠のように見える部分は全て、各メディアによる憶測。

私には、

根拠はないが「自殺」、

と言われているようにしか映っていなかった。

無理くり信じろと言われているような気がしてならない。

どうしたら信じられるんだ?

 

未来に志を持って前向きに生きていた彼。

前日の夜までドラマの撮影をしていた彼が、

根拠は不明だが自殺をした。

と言われても、どこをどう信じればいいのか?

 

彼の49日に事務所が出した公式コメント。

私は何度も何度もあの粗悪な文章を読み返した。

そして、ブログでも何度も何度も検証してきた。

どこをどう取っても、信憑性に著しく欠けている。

取って付けたようなことばかり書いてあるコメントの、

どこをどう信じればいいのか?

 

何を信じるかなんて、ほんと個人の自由。

マスコミの言うことを鵜呑みするのも、ほんと個人の自由。

だけど、逆に、マスコミを信じ切って自殺だと疑わない人々は、

何を根拠にそれを信じることができるのか?

自殺だと言える、納得できる根拠があるのなら、

その絶対的な根拠を以って、私はその方たちに説得させられたいです。

自殺だと疑わない人の考え方を聞きたいです。
 

あの日、メディアの報道したことを鵜呑みにして

しっかり納得している方々からしたら、

「他殺だ」と主張する私のことは、

バカだ、狂っているとしか思えないだろう。

別にそれは構わない。

自分がどう思われていても、私は私の信念を貫くだけだから。

 

だけど、それを報道しているのは、

反日家たちから成る業界だということ。

それは事実である。

 

素直に考えてみたとき、

報道している反日メディアは、

自分たちの立場を利用して、

自分たちの都合のいいように物事を報道できるし、

都合のいいようにしか報道しないだろう。

報道したくないことは、報道しなければいい。

隠蔽すればいい。

それが自然な流れだろう。

 

根拠がないことを報道するとき、

メディアは自分たちの価値観に基づき、

自分たちにとって都合のいい意見で報道するだろう。

根拠のないあの日の出来事。

それを自殺と報道するか、他殺と報道するか、

それはメディア次第。

メディアは、根拠がないにもかかわらず自殺と報道した。

根拠がないから、他殺の可能性だってある。

しかし、どうして他殺の可能性を報じるメディアは一つも存在しないのか?

それは、検閲、口裏合わせがあったからだろう。

自殺と報道することが、反日メディアにとって最も都合がよかったからだろう。

 

実は、根拠がある他殺かもしれないよ。


この業界を牛耳る反日家たちにとって、

報道したくないことを隠蔽することは、ものすごく簡単なことだから。

 

他殺であると報道されることが、

反日家たちにとってものすごく都合が悪いことなのは明らかだ。

だって、

彼は親日家であるという事実と、

日本のマスコミは反日家たちによって牛耳られているという事実。

そこに存在するのは対立する思想だから。

 

他殺と報じてしまえば、反日による他殺、

というふうに結びつくのは自然の流れ。

だから、他殺だと分かっていても、

他殺だとは報道しない。

真実を隠蔽する理由がここにある。

 

根拠がある他殺。

でも、検閲と口裏合わせにより、

どこのメディアも、根拠がなくても自殺と一斉に報道した。

あの日以降、ほとんどの俳優たちは彼の名前を口にせず、

何もなかったかのように涼しい顔してほほ笑んでいる。

きっと、俳優たちの間でも、反日家たちによる検閲が行われたのだろう。

 

根拠がない代わりに、

親族のせい、過労のせい、いろんな憶測を伝えまくり、

その憶測がまるで根拠であるかのように伝え、

人々に「だから自殺」と信じ込ませ洗脳しようとした。

 

メディアの言うことを全て鵜呑みにすることは、

ものすごく危険である。

「疑ってみる」ということも、時には必要だと思います。