そろそろ4カ月経つのだが、

時間が解決してくれるというのは、

このことには当てはまらないようで、

いまだに彼の死を受け入れらずにいる。

悲しみは、癒えるどころかさらに深まり、

今まで考えなかったことを、深く考えるようになり、

いろんな、本当にいろんなことが頭の中を駆け巡っている。

 

この不可解な事件について、

いろんな考え方が存在する。

私にも、私の思うものがある。

それを誰かに強要するつもりはなく、

平和ボケしていた自分自身に言い聞かせるように

ただただ、自分の思うことをひたすら書き続けている。

 

いろんな考え方が存在し、

どの説を信じるかは個人の自由なのだが、

結論だけは一致していること。

自殺ではないということ。

そこが同じであることは、

悟空の元気玉が大きくなるのと似た感覚で、

私は闇の中に一点の光を感じることができている。

 

ちなみに、人類の歴史というのは、

様々な説から真実が導かれている。

説を説くこと、陰謀説を説くこと、

それは決して悪いことではない。

むしろ、真実を導くためになくてはならないものなのだが、

マスコミにより、陰謀説とは悪いものだ、というふうに

人々は洗脳されている。

 

マスコミによって、彼は自殺したと洗脳された人々が、

少しずつ、自殺ではなかったという方向に傾きつつあることは、

彼を失って悲しみにふけるファンをはじめ、

それを訴え続けている人々の成果であり、

たとえ公にそれが認められることがなくても、

日本中のたくさんの人が真実に気付き、洗脳から解かれたら、

それは重要な進歩だと思う。

 

私には、私の思うところがあり、

そして、皆様にも皆様それぞれの思いがあり、

たとえそれが私の考えとは違っても、

私はそれに対して真っ向から反対するつもりはなく、

皆様の思いを認め、尊重している。

結論の部分が同じであるだけで、

私は希望の光を見いだせている。

 

ただ、一つだけ。

たった一つだけ、ものすごく私の心が痛むことがある。

 

彼の事件が報じられて早々に出てきた彼の家族に関する記事。

そもそもは、その記事にインスパイアされた人々が、

彼の家族を批判することとなったわけなのだが、

プライバシーもデリカシーもなく、

根拠不明な憶測で家族のことを取り上げた記事が

すべての誹謗中傷の発端であり、それが諸悪の根源であり、

そういうデリカシーのない記事を出した記者に

いちばんの責任があるのは言うまでもない。

 

しかし、

家族がお金をせびっていたと非難したり、

彼の遺産が家族に入るのが許せないとい言ったり、

彼の家族を疑ったり、

家族のせいで彼は命を絶ったと言ったり、

それだけは、お願いだからやめてほしいといつも思ってしまう。

それは私のエゴかもしれないが、

それでも、エゴと思われても構わない、

それだけは心が痛いからやめてほしいのです。

 

彼の家族を否定すること。

それは、彼の出生自体を否定することにもなるから。

彼の人権を否定することにもなるから。

だから、私は、家族は疑いたくない。

 

彼がこの世に生まれてきたのは誰のおかげか。

私たちが彼に出会えたのは誰のおかげか。

家族を否定してしまったら、

その感謝の行き場がなくなってしまうから。

 

私は絶対に疑わないけど、

でも、もしも、もしも彼の家族だったという確実な証拠が、

もしも、出たとしたら、、、

その時は、私はもうそれを受け入れるし、受け入れられると思う。

 

家族に生きることを否定されたのだとしたら、

それは、

そういう運命だった、

と、私は受け入れる。

 

他人には、自分が生きることに口出しする権利はない。

でも、家族には、その権利は無きにしも非ず、だと思う。

 

自分がこの世に生を受けたことは、

家族によって仕向けられたことで、

家族によって与えられた権利だと思う。

だから、自分の生が間違っていると家族が否定したら、

それもまた、家族によって出された結論だと思うしかないのかな。

私はそう思う。

もしも、その家族によって自分が生きていることを否定されるなら、

私は、そういう運命だったと諦める。

 

自分が親になって分かることがある。

親にならないと分からないことだと思う。

ぼんやりしたことで説明するのが難しいが、

それは、我が子に対する愛情は永遠だということ。

 

そして、自分が親となった今、

自分の親が私に注いでくれた愛情を実感している。

愛情とは、単にかわいいとか、そういうレベルではないってこと。

こんな年になっても、昔と変わらず私を心配してくれる両親。

子供だからかわいい、とかそういうレベルではないんだよね。

大人になっても、何歳になっても、その愛情は色褪せないってこと。

 

愛情とは、単にかわいいとか、そういうレベルではない。

例えば、まるでアイドルのように整った顔立ちの子供がそこにいたときに、

子供を持つ親はその子をどのように見るか?

ものすごくかわいいとは思うけど、それ以上のものはない。

 

また、第三者にとっては、まったく目を引く容姿ではなくても、

その子の親にとっては、特別かわいく、いとおしく見える。

説明しにくいのだが、

我が子が親にだけ出している特別なオーラみたいなものがあり、

そのオーラみたいなものは親にしか見えないようになっている。

人間という生物は、遺伝子レベルでそういう風に組み込まれているのだろう。

 

私が思うには、たいがいの親子というのは、

遺伝子レベルで愛情が組み込まれれており、

理論的には家族内で殺人事件は起こり得ない。

 

しかし、現実はそうではない。

例えば、親が子供の将来を悲観して殺害、またその逆もしかり。

それは、愛情の裏返しの結末。と思えば、そういう運命だった。

と、仕方なかったとあきらめるしかないと思う。

 

しかし、血縁者の間での恨みによる殺人、保険金狙いの偽装殺人、

そういうものも残念ながら存在する。

親が子の生を否定する。子が親の生を否定する。

私はこれについては、突然変異的な遺伝子の不一致のようなかんじで、

遺伝子レベルで引かれる力が先天的に存在しなかったんだと思う。

この場合も、こうなってしまったのなら、そういう運命だった。

と、仕方ないとあきらめるしかないのかな、と私は思っている。

 

血縁者間の殺人事件は、計画性が少なく感情的な突発的なものが多い。

しかし、彼の事件に関しては、かなり入念な計画がなされている。

家族間で、ここまで入念に計画する必要があったのか?

そう考えると、どうも家族が関係しているとは思えない。

血縁関係のない継父を疑う記事を目にするが、

私が以前のブログで書いた通り、

私は、継父にどんなメリットが存在するのかと考えたところ、

継父が彼を殺すことによるメリット、

または、殺さなければいけない理由を、

私には見いだせなかった。

 

何を信じるかは個人の自由だと思っている。

だけど、家族間でお金の問題はあったのかもしれないけど、

根拠もなく家族を忌み嫌い疑っている人たちを見ると、

私の心はものすごく痛み、居ても立っても居られなくなる。

そう思うことは、私のエゴなのだろうか?