①遺書は見つかっていないが自殺の可能性。

②遺書は見つかっていないので他殺の可能性。

 

この2つの文章。

言われたときに、すっと入ってくるのはどちらでしょう?

 

マスコミは、「遺書は見つかっていないので他殺だと思うこと」は

とても悪いことだというふうに人々を仕向け、洗脳している。

 

でも、よく考えてみて。

自然な文章はどちらでしょうか?

①遺書は見つかっていないが自殺。

②遺書は見つかっていないので他殺。

 

マスコミは、全ての他殺説を、「根拠のない陰謀説」と都合よく言い放ち、

まるでそれが悪いことのように報道し、人々を洗脳する。

では、自殺であるという決定に至った根拠は何なのか?

マスコミは、都合よくそこには一切触れない。

 

警察の根拠のない結論を信じることが美徳で、

陰謀説を信じることが悪徳で、

 

自殺であると信じることが美徳で、

他殺であると信じることが悪徳で、

 

そんなふうに報道するマスコミ。

意味が分からない。

完全に洗脳の世界。

 

逆に、自殺という警察の根拠のない結論を、素直に信じている人は、

なぜそれを信じることができるのかを知りたい、、、

教えて。

 

https://protest.web-pbi.com/unnatural/%E5%A0%B1%E9%81%93%E7%B5%B1%E5%88%B6

 

日本の警察は、他殺の疑いがあっても、自己都合で自殺と断定する。

https://note.com/fictitiousness/n/n42aa83505ab8

 
首吊りは、他殺を自殺とみせるための最もポピュラーな手段。

https://www.mashupreporter.com/pathologist-questions-epsteins-death/

 

インドネシアの警察は、日本の警察のように検挙率にとらわれないのか?

他殺という判断を下すことにためらいのないインドネシア警察は、ある意味、勇敢さを覚える。

この事件が日本で起こっていたとしたら、当たり前のように自殺と即断即決するだろう。
珍しいのは、この場合は、一度他殺と判断した事件を、自殺という判断に一転している点。

インドネシア警察は、判断を一転することを躊躇しないのか。

自殺という判断に一転したことを納得できない人も少なからず存在するだろうが、

検挙率などにとらわれず、恥をさらすことを恐れず、判断を一転できるところに、

なんというか、変な愛嬌のようなものを感じる。

https://news.yahoo.co.jp/articles/b8f7351f290178c04fc5337596873c184d85669f