暴動だとか・・・
中国軍の越境だとか・・・
色々騒がれた週末。
170万人というとてつもない人数のデモも、とりあえず悲しいニュースにつながることがなかったことだけは良かった。
今日は、少し話題を変えて、「飲茶」を私なりの視点で考えて見たい。
飲茶と聞くと、あの積まれた蒸篭の隙間から、蒸したての湯気がレストランを舞い、店員がそそくさとテーブルに置いて行ったアツアツの蓋を開けた時に沸き立つように覚えるあの幸せ感。
プリプリのエビ餃子、パリパリの春巻きに、ジューシーな豚のスペアリブや焼売など。どれも飲茶の定番だ。
飲茶の魅力は飽きることのない香港の食文化の代表格である。
そんな飲茶であるが、香港に住み始めてほどなくした頃、気が付いたことがある。それはある週末のレストランでふと見た光景だった。
そこには3世代で円卓を囲むある家族がいた。人数でいえば10人位だったと思う。
恐らく親戚同士であろう、そこには、男性の家族、その人の妹らしい人の家族、赤ちゃん連れだった。そして、二人のお母さんだろうか、そのおばあちゃんを囲むように皆がそれぞれの蒸篭を突き、話し、笑い、お茶を飲む。そいうった家族の集まりだった。すると、おばあちゃんの隣の席に、恐らく孫の一人だろう、金髪でいかにもやんちゃ系の兄ちゃんが座っている。
しかし、面白いことにその孫らしい兄ちゃんは、おばあちゃんの茶飲み茶碗にお茶を注いでいるのだ。
おばあちゃんは、孫に何か諭すように、話しかけ、孫は苦笑いを浮かべながら、うんうんと頷いていた。
飲茶のこういった光景は、土日休日になれば、ごく普通の日常として溢れ、溶け込んでいる。
私は当時、この光景が続く限り、この社会は強いと感じた。
この小さな食に集う空間に、きちんと相互扶助の精神が刻まれているからだ。
この金髪の兄ちゃんは、飲茶を通じ、お年寄りを大切にし、敬うことを自然に身に着けてきたのだろう。
おばあちゃんは、飲茶を通じ、子や孫の顔を見ることができ、さぞ幸せな時間を過ごしていたのだろう。
この兄妹夫婦は、飲茶を通じ、お互いの家族のことや仕事のこと、教育のことで情報交換の場を楽しんだのだろう。
そして、この赤ちゃんは飲茶を通じ、そんな家族の大切な絆を、愛情と共に育んでいくのだろう。
飲茶には、家族にしろ、仕事仲間にしろ、同じ仲間を円卓で囲み、人と人を繋ぎ、ゆっくりとした時間の共有の空間がある。
だから香港では、人として理解しがたい変質的な気持ちの悪い犯罪をあまり聞かない。
その根底の一つには、こういう「飲茶」で育まれた家族や仲間を慕う気持ちがしっかりと根付いているからではないだろうか。
そんな週末の何でもない光景を、これからもずっと見続けていきたいと願う。