日常を生きていると誰かの意識の低い(ように感じる)言動を目の当たりにすることがあります。
例えば僕の場合だったら、講座やセミナー中に、集中力を欠いたり、眠そうにしている参加者を見る場面などがそれにあたります。
会社員時代の僕であれば、きっと自分のセミナーや研修中に眠そうにしている参加者を見たら、「善悪ジャッジ」にはまっていたことでしょう。
「何なんだあいつは、集中力を欠きやがって…。」(善悪の「悪」ジャッジ)
そしてその内なる声はこう続きます。
「もうあいつのことなんて放っておけ。集中力を欠いた自分が悪いわけだし…。」(善悪の「悪」ジャッジの発展「見放し」)
見放された方としてはほぼ無意識的にその行動をとっているため、急に見放されるとびっくりします。
そのびっくりは、失望・落胆に変わったり、逆切れ・不満に変わったりするかもしれません。
一方、善悪ジャッジにはまっている講師の僕は、次々に「意識の低い参加者」を呼び寄せる展開になったりしました。
でもその後、色んな考え方をメンターたちから学ぶにつれて、そういう参加者の出現率は低くなりました。また出現したとしても、対処の方法が変わったのです。
きっかけは、メンターのアラン・コーエンさんのセミナーでのある一コマでした。
Aさんという参加者がいました。Aさんは、セミナーの最中いつも意識が低く、眠そうにしていて、斜めに座っています。
アランに何か聞かれても、真剣に答える様子がありませんでした。
僕は、久しぶりに自分の中で「内なる善悪ジャッジ」が起きました。Aさんに対して少しイライラしたのです。
「大好きなアランのセミナーであんな不遜な態度を取っちゃって…。」
僕の少し前の記事を読んだ方ならおわかりですね。
はい、これがいわゆる「投影」です(笑)。
でもアランの対処の仕方は全く違いました。
イライラした様子をみじんも見せることなく、でも見放すわけでもなく、とても優しいまなざしでこうAさんに言ったのです。
「Aさん、姿勢を正してください」
Aさんはびっくりして、シャキッとして姿勢を正していました。
アランは続けました。
「Aさん、もう一度質問します。急がなくていいので、あなたの内なる答えを、しっかりとお話ししてください。」
Aさんは、本来の輝きを取り戻し、ありのままの美しい答えを答えていました。そして参加者全員が心からの拍手を送ったのです。
僕はそのセッションが終わったとき、アランに質問しました。
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僕:「アランはああいうとき、参加者のことをどう見てるんですか?僕がアランの立場(講師)だったら、イライラしたり見放したりしたくなったと思うのですが…。」
アラン:「私はAさんの態度そのものに判断はしていませんでした。それよりもその態度に現れてきている"抵抗"に注目していたのです。
きっとAさんの中で向き合いたくないテーマだったのでしょう。でもAさんはここにこうして来ていますからね。もう準備はできているはずなのです。
それなのに抵抗に屈して、やりとりを止めてしまったり曖昧にしたら、Aさんのためにならないと私は考えたのです。
だから私はAさんの内なる"抵抗"に伝えたのです。姿勢を正してください、しっかりと話してくださいと。結果、Aさんの内なる抵抗は、Aさんの真実には叶いませんでした。」
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驚きました。
僕が善悪ジャッジをしている間に、講師であるアランは、「抵抗を見極めて」「適切に対処」していたのです。
アランのセミナーでは、抵抗的な参加者もみんな最終的にはありのままのその人の姿に戻っていくように感じます。
その秘訣を知りたくて質問したのですが、すごく腑に落ちました。
もちろん、人間ですから、善悪ジャッジを全くしないというのは、難しいかもしれません。
しかも善悪ジャッジ力(スピード?)に長けた僕のマインドは相変わらずあれやこれやと善悪ジャッジをしようと内側でグルグル動いています。
そのジャッジの矛先は、他人や環境、出来事にも向くし、自分自身にも向いてきます。
僕自身はこんな風に対処しています。
まず一つ深呼吸。吐く息とともに善悪ジャッジごと、浄化します。
その後で、他人や自分の"内なる抵抗"に気づきます。
何への抵抗なのか。どんなこだわり・執着を手放したらいいのか。
気づきはあっという間にやってくることもあれば、一晩おいてやってくることもあります。一つだけ確実なのは、意識を向ければ、気づきはやってくるということです。
こうして「抵抗を見極めて対処する」ということをやっていけば、意識の低いように見える他人や自分の言動に反応的になることはなくなっていくのだと思います。
そして実は意識が低いとか高いというのも相対的なジャッジに過ぎません。その相対的な善悪ジャッジをベースとした人生は、すごく大変です。
善でいるよう他人や自分に強いることになるし
悪のように見える他人や自分を否定し裁いてるから、苦しくなってしまうのです。
もちろん善悪ジャッジのおかげで楽しい体験もたくさんできました。
でももうそのステージはそろそろ卒業してもいいのかなって感じています。
それはきっと地球全体で言えることなのかもしれません。
まずは僕自身が善悪ジャッジを抜けたステージで生きることやこうして発信していくことが、この地球に新しい調和のステージをもたらすことに繋がっていくのでしょう。
この記事を目にしたあなたも、きっと心のどこかでわかっているのだと思います。だからこそこの記事を目にしたのだと思います。
善悪ジャッジの先に本当の満足した世界がないことを。
人間として生きている間は、善悪ジャッジはなくならないでしょう。
でも自覚的に、生きることはできるのだと思います。
それが人間としての最大限の奇跡であり、癒しになるのだと思います。
この記事をアップした後も、僕は自分のうちなる善悪ジャッジとの対話を楽しみながら、ありのままの世界を見ていきたいと思います。
今日も最後まで読んでいただいてありがとうございました。