「私は、執着を手放したんです」
そう言う人は、『「執着を手放したい」という執着』を実現したということになることに気づきました。
「執着を手放したんです」
とは
「悟ったんです」
とある意味似ている波動です。
自分は悟ったと吹聴する人に悟った人はいない、とはOSHOの言葉ですが、本当にその通りだと思います。
僕から見て、明らかに悟っていそう人に限って、悟りという単語を発しないし、そんなことはどうでもいい、とでも言わんばかりに「今この瞬間」を生ききっているのです。
「『執着を捨てなさい』と教えられたのに執着を捨てようとするとそれが執着なんだとわかりました。でもそうしたらどうしたらいいでしょうか?」
実は、この問いこそ、僕が去年タイの修行中に尊敬する日本人スタッフの女性に聴いた言葉でした。(ちなみにこの女性こそ僕の中のヨガの師です。本人は先生扱いしないでくれっていつも言うけど 笑)
「どうしたらいいのでしょうか?」
実はその問い自体が、すでに罠の中だったわけですが...。
この禅問答的やりとりの帰結する先は、結局のところ「どうでもいい(そんなこと忘れる)」という立場とも言えます。
「執着か否か?」という執着に苛まれがちな自分自身に向けて、久しぶりに投稿してみました。