こんにちは!
鹿児島のライフコーチ、
亀井弘喜(かめいひろき)です。
ひそかに記事アップを楽しみにしてくださってる方がそろそろ出てきた自己紹介記事シリーズ、その4です。
その1はこちら↓。
ほんきの自己紹介 ~ その1 ~<0歳~6歳>
その2はこちら↓
ほんきの自己紹介 ~ その2 ~ <7歳~10歳>
その3はこちら↓
ほんきの自己紹介 ~ その3 ~ <10歳の転換期①>
今回はその3で起きた出来事の顛末とその後の展開を。
※前回(その3)の記事同様、講演会とかでは結構赤裸々に話してるのですが、ブログでは初めてです。あまり家庭内のもめ事など見たくも知りたくもない、という方はこの回は飛ばしていただけたらと思います。
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<弘喜 10歳のある日>
「お前ら、良く聴け。お父さんとお母さんは来週離婚するから。どっちについてくるか来週までに考えておけ!」
そのまま出ていった父。母は台所で泣き崩れていました。ただただ、「ごめんね。」と僕と兄に謝っていました。
離婚ってどういうことなのかはよくわからないけど、お父さんとお母さんのつながりや、家族のつながりが今まさに切れかかってるということは幼いながらに、よくわかりました。
そして運命の「来週」がやってきたのです。
父はバツが悪そうにこう言いました。
「結局離婚はしないことになったから。」
…。
「どっちについてくるか迫られる」展開を予想していた僕と兄にとっては拍子抜けするとともにホッとしました。
これでまた家族仲良くいられると。
でも実際は違いました。
真実は亡き母に聞いてみなければわかりませんが、母は父の浮気を許したわけではありませんでした。
ぐっと自分の中に、「恨み」として押し込めたのです。
その証拠に、離婚騒動のとき…。
「もうあなたなんて別れる!」と泣き叫ぶ母。
「別れたとして、お前なんか食っていけないじゃないか。どうやって食っていくのか説明してみろ!」逆切れする父。
確かにそうでした。
母は高校を出てすぐ働きに出たものの若くして父と結婚し、それ以来ずっと専業主婦。しかも地元ではそんなに偏差値の高い高校でもなく(というかむしろ低い方から数えて何番目か)。
そんな母が神奈川の平塚という町で、(もしくは仙台に出戻って)一人で生計を立てていくのは相当難しいだろうな、と子どもながらに感じたのを覚えています。
ましてや僕たち二人の子どもを連れて別れると言って聞かなかった母。2人の子どもを養いながら生計を立てるなんて。
今だったら考え方は違います。どんな母でもきっと立派に生きて、僕らを養うこともできたはずです。
でも当時の僕には、母が「弱者」に見えて、父が「強者」というか「権力者」に見えました。
父は、母や兄や僕に怒るとき、必ず言う言葉がありました。
「誰のおかげで飯が食えてると思ってるんだ!」
この言葉を言われると、母も兄も僕も反抗の気持ちが萎えるのです。なぜなら、確かに父がいなかったらご飯が食べれない現実がそこにあったから。
この言葉を父から言われるたび、僕は自分の心の中でこうつぶやいていました。
「好きで、あんたに食わしてもらってるんじゃない!」
「あんたのもとに何て、生まれてきたくて生まれたんじゃない!」
「いつか自分一人で飯食えるようになって見返してやる!二度と世話になんかなるもんか!」
そう、恨みをためてためて押し殺したのは、母だけではなかったのです。
僕もそうでしたし、兄もそうでした。
父の怒りと触れた人間は、みな、小さな恨みを溜めていくのです。(そのように当時は見えたという意味です)
母の恨みはどんな行動につながったのか。
それが、2010年に亡くなった理由のひとつでもある、「酒」そして「タバコ」でした。
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次回、ほんきの自己紹介 ~その5~ <11歳~12歳>へ続きます。