ここ数日、当方のニコニコ超会議の発表と雑誌正論の記事がtwitterに上げられたことで、その内容が種々の議論の対象になっています。最初はtwitter上でコメントしていましたが、字数制限のため十分な説明ができません。そこで、主要な論点についてブログで順に取り上げていこうと思います。ただ、こちらもそれなりに忙しいので、頻繁な更新は期待しないでください。暇を見つけて書いていきます。
今回は、事実に関する議論と価値に関する議論の区別について考えます。Twitterの反応を見ると、この区別ができていない人がかなり多いようです。ほとんどの人は、まず好き嫌いがあって、自分の価値観に都合のいいような事実だけを集めてきます。そして、都合の悪い事実を指摘する人に対して、すぐ攻撃的な姿勢をとる人も少なくありません。
雑誌正論の記事では、安保法制反対の政治運動に大学名を持ち出して署名する行為が、大学の政治活動にあたるとして問題視しました。個人として署名することは問題ないと本文には書いているのですが、一部の人から安保法制賛成の怪しからん右翼という扱いを受けています。ちなみに、私は安保法制の細かいことはよくわからないので、安保法制自体について積極的に意見する気はありません。もちろん、日本が今後も今の平和を享受できることは願っています。そこで、ここでは安全保障問題について、事実の議論と価値の議論をどう分けるかを考えてみましょう。
今しがた述べた「平和を享受できることは願う」というのは、当然価値に関する議論です。安保法制や憲法9条改正に対する賛成・反対も価値に関する議論です。その一方で、安保法制や憲法9条改正によって、戦争が起こりやすくなるかどうかは事実に関する議論です。日本には、世界でもあまり例を見ない丸腰平和論というのがあります。(なぜ、日本でこの論の支持者が多いかについては別の機会に論考したいと思います。)この丸腰平和論には、2種類のパターンが考えられます。
1つは、戦って人を殺すぐらいなら、無抵抗に殺された方がいいという考え方です。評論家の森永卓郎さんは、こうしたお考えのようです。おそらく、こういう価値観を持つ人はマイノリティだと思いますが、多様な価値観を尊重するという立場(私もそうですが)に立てば、こうした考え方も尊重すべきです。ただし、「無抵抗に殺された方がいい」と主張している人が、いざそういう場面に遭遇した時に本当にそう振る舞うか否かは事実に関する議論になります。
もう一つは、平和を維持するためには丸腰でいなければならない、丸腰でいなければ戦争になるという考え方です。この場合、生き延びたいという価値観が前提になっていると考えられますから、武装して国を守るべきだという人と価値観自体は近いことになります。その価値を実現する上で、どちらの手段がより有効かという議論は、事実に関する議論です。
事実に関する議論は学問の守備範囲です。学問的(科学的)命題は、実験や観察によってその真偽を判定します。実験や観察という方法論の正当性は、「同一条件下では同一の現象が再現する」という科学的思考の前提を根拠にしています。(この辺の緻密な議論は拙著「学問とは何か」をご参照ください。)
社会科学の場合、実験をすることは難しい場合が多いので、主に過去の類似した事例を観察するという手段をとります。旧ソ連による日本人シベリア抑留、近隣諸国による日本人漁師の銃撃・拿捕、中国における天安門事件や自治区で少数民族が受けた仕打ちなどの事例から判断すると、丸腰でいれば平和が維持できるという論は、事実として間違っていると考えられます。
日本における安全保障の議論がややこしくなるのは、丸腰平和論が上に挙げたような自説に都合の悪い過去の事例を隠蔽しようとすることです。最近の若い世代で、シベリア抑留や天安門事件を知っている人が非常に少ないことにはしばしば驚かされます。自説に都合の悪いことは隠して広く知られないようにするという態度は、学問に携わる者がとるべきものではありません。
私は、森永さんのように自らの価値観に忠実な丸腰平和論は尊重します。しかし、都合の悪い事実を隠して自説の支持を集めようとする丸腰平和論は、人を騙す議論ですから、批判の対象になって然るべきです。
国際情勢の不安定化に伴い、憲法改正をはじめとした安全保障に関する議論は今後否応なく盛んになるものと思いますが、事実に関する議論と価値観に関する議論がきっちり区別される形で行われることを願っています。